中山道歩き34の3(2017/9/30) 10月21日(土) [中山道を行く]
冷たい雨が続いている最近ですが、昨日は午前中に雨は止み、雲の合間から青空が見えていました。
区役所に行く用事があったので、ついでに期日前投票をしてきました。
どこかのマスコミが出口調査をしていました。
午後から曇りの空が続き、午前は少し暖かった気温も下がり、寒い日に戻りました。
中山道34日目続きます。
赤坂宿本陣跡で少し休憩しました。
広場になっており何にも残っておりませんでした。
和宮が本陣に泊まったという石碑だけがありました。
進みます。
岐阜市に本店がある地方銀行十六銀行の支店がありました。
宿場町の雰囲気に合わせた建物です。
赤坂宿に現存する建物の中で、最古級の町屋建物で休清水家住宅です。
清水家は元商家だったそうです。
宿場の中心地だったところで、昔風の建物が並んでいます。
この先は十字路になっており、中山道と養老街道が交差しています。
交差点には大きな建物があります。
(電柱電線が邪魔ですね)
その先にはこの辺りの財閥と言われる矢橋家の住宅があります。
国登録有形文化財です。
周辺には矢橋工業をはじめ、矢橋グループの会社がいくつかあります。
少し先には、脇本陣であった榎屋があります。
調べてみると近年まで旅館として営業していたとか。
横の道には矢橋グループ本社の表示がしてあります。
この路地の奥にあるのでしょう。
榎屋は市の景観遺産の指定されているようです。
その先には、この建物が。
中山道宿場の駅五七処というそうです。
土産物などを売っているそうですが、私は歩き旅、荷物が増えるのは嫌なので、立ち寄りませんでした。
赤坂宿は、五十七番目の宿場と表示してありますが、普通の数え方では五十六番目です。
(江戸を一番目と数えているようです)
向かいに妙法寺と言うお寺がありました。
どう見ても門の屋根が傾いているようですが・・
先にあるお堂の床、前の灯篭で水平を合わせて撮ってみました。
赤坂宿の中心地を過ぎても、町並みは続きます。
道は緩やかな上り坂になりました。
宿場町のはずれでしょう。
区役所に行く用事があったので、ついでに期日前投票をしてきました。
どこかのマスコミが出口調査をしていました。
午後から曇りの空が続き、午前は少し暖かった気温も下がり、寒い日に戻りました。
中山道34日目続きます。
赤坂宿本陣跡で少し休憩しました。
広場になっており何にも残っておりませんでした。
和宮が本陣に泊まったという石碑だけがありました。
進みます。
岐阜市に本店がある地方銀行十六銀行の支店がありました。
宿場町の雰囲気に合わせた建物です。
赤坂宿に現存する建物の中で、最古級の町屋建物で休清水家住宅です。
清水家は元商家だったそうです。
宿場の中心地だったところで、昔風の建物が並んでいます。
この先は十字路になっており、中山道と養老街道が交差しています。
交差点には大きな建物があります。
(電柱電線が邪魔ですね)
その先にはこの辺りの財閥と言われる矢橋家の住宅があります。
国登録有形文化財です。
周辺には矢橋工業をはじめ、矢橋グループの会社がいくつかあります。
少し先には、脇本陣であった榎屋があります。
調べてみると近年まで旅館として営業していたとか。
横の道には矢橋グループ本社の表示がしてあります。
この路地の奥にあるのでしょう。
榎屋は市の景観遺産の指定されているようです。
その先には、この建物が。
中山道宿場の駅五七処というそうです。
土産物などを売っているそうですが、私は歩き旅、荷物が増えるのは嫌なので、立ち寄りませんでした。
赤坂宿は、五十七番目の宿場と表示してありますが、普通の数え方では五十六番目です。
(江戸を一番目と数えているようです)
向かいに妙法寺と言うお寺がありました。
どう見ても門の屋根が傾いているようですが・・
先にあるお堂の床、前の灯篭で水平を合わせて撮ってみました。
赤坂宿の中心地を過ぎても、町並みは続きます。
道は緩やかな上り坂になりました。
宿場町のはずれでしょう。
史跡御使者場跡の石柱が立っています。
御使者場とは、大名行列が来ると、宿場の役人たちが出迎えの挨拶をする場所の事
隣には兜塚の案内が立っていました。
関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦がありました。
戦死した東軍、の武将、野一色頼母(のいっしき たのも)を葬り、兜を埋めたと伝えられています。
関ケ原の合戦の前日、西(三成)軍と東(家康)軍との合戦がありました。
杭瀬川の周辺でありました。
その日の夜、西軍は関ケ原の方へ移動を始めました。
それを知った東軍は真夜中に移動をはじめ関ケ原に本陣を移しました。
翌日関ケ原の合戦が始まりましたが、その日のうちに終わりました。
結果は皆様ご存じかと思います。
・
兜塚には彼岸花が咲いていました。
しばらく進むと・・・・こちらが西濃鉄道昼飯線の廃線跡です。
踏切番の小屋の残骸が残っています。
遮断機のハンドルは錆だらけです。
中山道の町並みは続いていますが、昔はこの辺りは宿場ではないところです。
突如大きな工場がありました。
石灰石が採れる金生山がすぐ近くです。
消石灰の工場でした。
中までは見ませんでしたが、観音様でしょうか、丁寧に祭ってあります。
平坦な道になりました。
いきなりこんな案内板があります。
90mならすぐそこなので行ってみましょう。
大きな古墳がありました。
上まで登れますが上がりませんでした。
4世紀末ごろの古墳で前方後円墳です。
この日は垂井駅まで歩きます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
D7500
AF-S DX NIKKOR 18-140mm f/3.5-5.6G ED VR
御使者場とは、大名行列が来ると、宿場の役人たちが出迎えの挨拶をする場所の事
隣には兜塚の案内が立っていました。
関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦がありました。
戦死した東軍、の武将、野一色頼母(のいっしき たのも)を葬り、兜を埋めたと伝えられています。
関ケ原の合戦の前日、西(三成)軍と東(家康)軍との合戦がありました。
杭瀬川の周辺でありました。
その日の夜、西軍は関ケ原の方へ移動を始めました。
それを知った東軍は真夜中に移動をはじめ関ケ原に本陣を移しました。
翌日関ケ原の合戦が始まりましたが、その日のうちに終わりました。
結果は皆様ご存じかと思います。
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兜塚には彼岸花が咲いていました。
しばらく進むと・・・・こちらが西濃鉄道昼飯線の廃線跡です。
踏切番の小屋の残骸が残っています。
遮断機のハンドルは錆だらけです。
中山道の町並みは続いていますが、昔はこの辺りは宿場ではないところです。
突如大きな工場がありました。
石灰石が採れる金生山がすぐ近くです。
消石灰の工場でした。
中までは見ませんでしたが、観音様でしょうか、丁寧に祭ってあります。
平坦な道になりました。
いきなりこんな案内板があります。
90mならすぐそこなので行ってみましょう。
大きな古墳がありました。
上まで登れますが上がりませんでした。
4世紀末ごろの古墳で前方後円墳です。
この日は垂井駅まで歩きます。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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D7500
AF-S DX NIKKOR 18-140mm f/3.5-5.6G ED VR