中山道歩き29の4(2017/6/9) 7月7日(金) [中山道を行く]
九州北部は大変なことになっていますね。
台風と違い、今回の豪雨は居座る様に同じところに降り続けています。
早く、止んで欲しいと思います。
横浜では、蒸し暑い日が続いていますが、雨はほとんど降りません。
こちらは少しぐらい雨が欲しいくらいです。
・
中山道の道中記6月7日分の最後です。
「一呑みの清水」の先は、広い道になりました。
このまま続くかと思ったらすぐ左に曲がります。
再び細い道になります。
案内板が立っています。
この辺りは歌川広重の版画のモデルになったところのようです。
この辺りに茶屋、木賃宿があったと思われます。
この絵です。
静かな細い道が続きます。
石柱が立っています。
謡坂(うとうさか)石畳です。
急な上り坂のため、旅人は苦しさを紛らわすため、唄を歌いながら上りました。
「うたう坂」が「うとう坂」になったと言われています。
台風と違い、今回の豪雨は居座る様に同じところに降り続けています。
早く、止んで欲しいと思います。
横浜では、蒸し暑い日が続いていますが、雨はほとんど降りません。
こちらは少しぐらい雨が欲しいくらいです。
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中山道の道中記6月7日分の最後です。
「一呑みの清水」の先は、広い道になりました。
このまま続くかと思ったらすぐ左に曲がります。
再び細い道になります。
案内板が立っています。
この辺りは歌川広重の版画のモデルになったところのようです。
この辺りに茶屋、木賃宿があったと思われます。
この絵です。
静かな細い道が続きます。
石柱が立っています。
謡坂(うとうさか)石畳です。
急な上り坂のため、旅人は苦しさを紛らわすため、唄を歌いながら上りました。
「うたう坂」が「うとう坂」になったと言われています。
私の場合は下り坂ですので、鼻歌交じりで下ります。(笑)
私は約50年前に左足を挫いたことがあり、毎年、梅雨前になると痛み出します。
急な石畳を下りる時に痛みを感じます。
ここの石畳は新たに作られたもので距離は長くなく、すぐに終わりました。
緩い下り坂です。
車もほとんど通りません。
緑の幟が見えました。
耳神社と言い、耳の病気にご利益があるとのことです。
再び細い道に入ります。
山道に入りました。
16時過ぎですが夏のためまだ明るいです。
11月頃ならば暗くなる時間です。
案内板がありました。
西洞(さいと)坂と言う急な坂です。
重い荷物を背負った牛の鼻が擦り切れるほどの坂で「牛の鼻かけ坂」と呼ばれました。
中山道全般を通して、この坂を境に江戸方は急な山道になり京方は平坦な道になるとなっています。
私は約50年前に左足を挫いたことがあり、毎年、梅雨前になると痛み出します。
急な石畳を下りる時に痛みを感じます。
ここの石畳は新たに作られたもので距離は長くなく、すぐに終わりました。
緩い下り坂です。
車もほとんど通りません。
緑の幟が見えました。
耳神社と言い、耳の病気にご利益があるとのことです。
再び細い道に入ります。
山道に入りました。
16時過ぎですが夏のためまだ明るいです。
11月頃ならば暗くなる時間です。
案内板がありました。
西洞(さいと)坂と言う急な坂です。
重い荷物を背負った牛の鼻が擦り切れるほどの坂で「牛の鼻かけ坂」と呼ばれました。
中山道全般を通して、この坂を境に江戸方は急な山道になり京方は平坦な道になるとなっています。
左上から来て、右下に下りて行きます。
坂を下りると、案内通り平坦な道になりました。
近くに山は見えません。
何回か角を曲がり、国道21号線に出ました。
角を曲がり、すぐに和泉式部の廟所がありました。
1019年、この地で病死したと記されています。
御嵩宿に向かって進みます。
21号線は交通量が多いです。
(後ろを振り返っています)
21号線はバイパスに分かれ静かになります。
ここを左に曲がります。
左に入るとさらに静かな道になりました。
通り沿いには大きなお寺が見えます。
宿場町の入り口あたりでしょうか。
御嵩宿の行燈が付いている家が見える様になりました。
こんな家があり旧宿場町の風情が感じられます。
商家「竹屋」できれいに保存されていました。
トイレを借りるため立ち寄りました。
これは中山道みたけ館という史料館です。
脇本陣だったところです。
本陣跡は隣にありました。
今でも大きなお屋敷です。
駅の手間に大きなお寺がありました。
「願興寺」というお寺でした。
この寺には翌朝立ち寄りました。
御嵩駅はすぐ目の前です。
電車に乗って新可児へ向かいます。
この時18時ごろです。
5月27日に歩いた時は大湫で止めて釜戸駅まで歩きました。
今回は大湫宿から御嵩駅まで6時間かかりました。
同じペースで歩いたとしても、19時を過ぎていた思います。
2回に分けてよかったです。
新可児駅からルートイン可児までの途中です。
翌日は何処まで行けるか・・・?
・
6月7日の道中記でした。
次回はちがう記事を挟み、次々回から6月8日の道中記になります。
+++++++++++++++++++++
前記事の静岡県御殿場の名前の由来について訂正・補足
徳川家康が存命中に、江戸と駿府の間に休憩するための御殿を作らせました。
しかし、翌年家康が亡くなり、家康はこの御殿を使う事はなかった。
(御殿場市ホームページより)
それ以後この場所を御殿場と呼ぶようになったようです。
前記事で久能山から日光への遺体移送の時に仮安置するために作ったという話は間違いのようです。
(hanamuraさんのコメントの方が正解でした。・・さすが静岡県人)
しかし、移送中に一時安置したことは間違いでもなさそうな気もします。
+++++++++++++++++++++
本日もご訪問ありがとうございました。
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Nikon 1 V2
1 NIKKOR 10-30mm f3.5-5.6
中山道歩き30の1(2017/6/10) 7月11日(火) [中山道を行く]
毎日真夏のような天気が続きます。
本当に梅雨なのかよくわかりません。
早朝の天気は毎日曇っていて、例年の梅雨明け後の天気とは違います。
まだ梅雨明けはしていないようです。
今日の横浜は晴れ、最高気温31度、この先1週間は毎日30度以上です。
・
中山道の記事に戻ります。
6月9日、10日の2日目です。
6月9日の夜はルートイン可児に泊まりました。
ルートインは大浴場があるので、ゆっくりと風呂に入ることが出来ます。
一日中歩いた体には助かります。
翌朝、朝食後、7時半頃に出発しました。
前日の終了地点、御嵩駅まで戻らなければなりません。
名鉄新可児駅へ向かいます。
大きな写真館ですね。
前日通った時に見えましたが、昔のカメラが展示してありました。
さる1号さんの実家はこの近くだとか・・・
10分位で駅に着きました。
御嵩行きのホームで待ちます。
御嵩行きの電車来ました。
2両しかありません。
約20分位で着きました。
ここまでは中津川で入手したこの地図を使っていました。
わかりやすく、非常に便利でした。
しかし、御嵩宿までしかありません。
この地図は今年の3月に出来たばかりで、この先はないとの事でした。
(出来るかどうかもわからない)
日本橋からここまで私が使用した地図
東京都・・東京国道事務所発行(ダウンロードしてプリント)
埼玉県・・東京と同じようなものがあるけど桶川の宿場館で入手
(コピーでした)・・コピー代相当支払い
ダウンロード可能な資料はありません。
群馬県・・埼玉の地図を入手した桶川で頂きました。
長野県・・このような冊子で3冊あります。
(碓氷峠~和田峠)
(和田峠~日出塩駅周辺)
(日出塩駅周辺~新茶屋)→これだけ英語版もあります。
長野県の観光協会に頼めば無料で送ってくれます。(web画面に入力)
滋賀県・・ダウンロードできます。
郵送代相当の切手を送れば郵送してくれます・・現在手配中
これから先の滋賀県境までの地図(歩く人用)がありません。
御嵩駅の案内所に御嵩宿~伏見宿の詳しい地図がありましたので頂きました。
その他に、出かける前に自分でこの地図を持ってきます。
地理院の地図をプリントして通る道を色づけしています。
(緑に塗っています)
その他、多くの方の道中記録(ホームページ)、本などを参考にします。
これから歩くところは車や、人家が多い所なので、山の中のような案内が少ないです。
・
最初に駅前にある、願興寺に行きました。
願興寺は天台宗の寺院で可児薬師、通称蟹薬師と呼ばれています。
最澄がこの地で桜の枯れ木に薬師如来を彫り安置したことが始まりと言われています。
弘仁6年(西暦815年)の事です。
その後2回の戦火で焼失しましたが、現在の建物は1581年に再建されたものです。
薬師如来をはじめいくつかの重文の仏像があります。
蟹薬師の扁額が掛けてあります。
街道歩きに入ります。
この道は後で気付きましたが間違いでした。
願興寺から10分ほどで国道21号線に出ました。
大型トラックなどはバイパスを通っているためほとんど通りません。
いきなり、「鬼の首塚」の幟が立っています。
案内板にはいわれが書いてあります。
石碑(墓石)の名前も関ノ太郎となっています。
しばらく行くと新しいプレハブのような神社がありました。
大きな石碑が立っています。
御嶽神社でした。
21号線から横に入っていきます。
中央の電柱に表示がありました。
国道から離れると静かになります。
と言っても左端の看板の横は国道です。
国道から離れた道はすぐ終わります。
土曜日でしたので車も少ないのでしょうか?
上の写真の歩道は安全に歩けますが、この歩道は少し怖いです。
??横浜飯店・・
再び国道から離れます。
ここらあたりに一里塚があったようですが見落としました。
(と言っても柱が立っているだけですが・・)
東海環状自動車道の下を通ります。
国道から離れていると言ってもこの程度です。
でも横を車が通るよりはいいです。
横を見れば田圃があったりします。
とか言っている間に国道と合流です。
国道に合流し500m余りで伏見宿一本松公園に着きました。
ここでしばらく休憩しました。
・
次回に続きます。
・
6月9日、10日の2日目です。
6月9日の夜はルートイン可児に泊まりました。
ルートインは大浴場があるので、ゆっくりと風呂に入ることが出来ます。
一日中歩いた体には助かります。
翌朝、朝食後、7時半頃に出発しました。
前日の終了地点、御嵩駅まで戻らなければなりません。
名鉄新可児駅へ向かいます。
大きな写真館ですね。
前日通った時に見えましたが、昔のカメラが展示してありました。
さる1号さんの実家はこの近くだとか・・・
10分位で駅に着きました。
御嵩行きのホームで待ちます。
御嵩行きの電車来ました。
2両しかありません。
約20分位で着きました。
ここまでは中津川で入手したこの地図を使っていました。
わかりやすく、非常に便利でした。
しかし、御嵩宿までしかありません。
この地図は今年の3月に出来たばかりで、この先はないとの事でした。
(出来るかどうかもわからない)
日本橋からここまで私が使用した地図
東京都・・東京国道事務所発行(ダウンロードしてプリント)
埼玉県・・東京と同じようなものがあるけど桶川の宿場館で入手
(コピーでした)・・コピー代相当支払い
ダウンロード可能な資料はありません。
群馬県・・埼玉の地図を入手した桶川で頂きました。
長野県・・このような冊子で3冊あります。
(碓氷峠~和田峠)
(和田峠~日出塩駅周辺)
(日出塩駅周辺~新茶屋)→これだけ英語版もあります。
長野県の観光協会に頼めば無料で送ってくれます。(web画面に入力)
滋賀県・・ダウンロードできます。
郵送代相当の切手を送れば郵送してくれます・・現在手配中
これから先の滋賀県境までの地図(歩く人用)がありません。
御嵩駅の案内所に御嵩宿~伏見宿の詳しい地図がありましたので頂きました。
その他に、出かける前に自分でこの地図を持ってきます。
地理院の地図をプリントして通る道を色づけしています。
(緑に塗っています)
その他、多くの方の道中記録(ホームページ)、本などを参考にします。
これから歩くところは車や、人家が多い所なので、山の中のような案内が少ないです。
・
最初に駅前にある、願興寺に行きました。
願興寺は天台宗の寺院で可児薬師、通称蟹薬師と呼ばれています。
最澄がこの地で桜の枯れ木に薬師如来を彫り安置したことが始まりと言われています。
弘仁6年(西暦815年)の事です。
その後2回の戦火で焼失しましたが、現在の建物は1581年に再建されたものです。
薬師如来をはじめいくつかの重文の仏像があります。
蟹薬師の扁額が掛けてあります。
街道歩きに入ります。
この道は後で気付きましたが間違いでした。
願興寺から10分ほどで国道21号線に出ました。
大型トラックなどはバイパスを通っているためほとんど通りません。
いきなり、「鬼の首塚」の幟が立っています。
案内板にはいわれが書いてあります。
石碑(墓石)の名前も関ノ太郎となっています。
しばらく行くと新しいプレハブのような神社がありました。
大きな石碑が立っています。
御嶽神社でした。
21号線から横に入っていきます。
中央の電柱に表示がありました。
国道から離れると静かになります。
と言っても左端の看板の横は国道です。
国道から離れた道はすぐ終わります。
土曜日でしたので車も少ないのでしょうか?
上の写真の歩道は安全に歩けますが、この歩道は少し怖いです。
??横浜飯店・・
再び国道から離れます。
ここらあたりに一里塚があったようですが見落としました。
(と言っても柱が立っているだけですが・・)
東海環状自動車道の下を通ります。
国道から離れていると言ってもこの程度です。
でも横を車が通るよりはいいです。
横を見れば田圃があったりします。
とか言っている間に国道と合流です。
国道に合流し500m余りで伏見宿一本松公園に着きました。
ここでしばらく休憩しました。
・
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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Nikon 1 V2
1 NIKKOR 10-30mm f3.5-5.6
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中山道歩き30の2(2017/6/10) 7月13日(木) [中山道を行く]
昨日は、関東北部や愛知県大雨だったようですね。
横浜では晴れて暑い日が続いています。
昨夕、南からの湿った風吹き、黒い雲が出てきましたので毎日の散歩は止めました。
雨が降るかと思いましたが、降りませんでした。
今4時ごろです。
窓を開けると涼しい風が入るのですが湿った風でむしろ不快になるのでエアコンを入れてます。
・
中山道を続けます。
御嵩から歩いて来て、伏見宿に着き、ここで休憩しました。
横浜では晴れて暑い日が続いています。
昨夕、南からの湿った風吹き、黒い雲が出てきましたので毎日の散歩は止めました。
雨が降るかと思いましたが、降りませんでした。
今4時ごろです。
窓を開けると涼しい風が入るのですが湿った風でむしろ不快になるのでエアコンを入れてます。
・
中山道を続けます。
御嵩から歩いて来て、伏見宿に着き、ここで休憩しました。
綺麗なトイレと、休憩スペースがありました。
伏見宿は、昔の宿場町の雰囲気を感じる建物がほとんど残っていません。
本陣のあった場所も気づかず通過してしまいました。
この建物だけ昔の面影を残すものでした。
旅籠だった三吉屋の建物です。
隣の小さな建物は伏見郵便局と表示されていますが、観光案内所の様でした。
大きな石碑があり、何を書いてあるかよくわかりません。
後日調べたら、槍ヶ岳の開山をした播隆上人の名号(みょうごう)碑でした。
変った字体ですが「南無阿弥陀仏」と彫ってあるようです。
この辺りには8か所あるそうです。
国道と言ってもバイパスがあるので静かです。
この石は何かの石碑かと思いましたがよくわかりませんでした。
拡大してみると何か彫ってあるのですが??
小さな神社がありました。
上恵土神社と言います。
横の広場からはこのように見えます。
広場の奥に小さな稲荷神社が祀ってありました。
国道21号線はバイパスと合流します。
単なる廃車置き場ではなく、事故車ばかり置いてありました。
旧街道歩きと言えども、時代が変遷するとこうも変わる物かと思います。
これはパチンコ屋さんです。
横断地下道のそばに、
一里塚の跡の案内がありました。
うるさい道は500m余りで横道に入ります。
水色の道から太い黄色い道に入り、水色の道に抜けます。
急に静かな道になりました。
大多線(美濃太田~多治見)の踏切です。
単線非電化です。
踏切を渡ると警報機が鳴り始めました。
ディーゼル列車の通過です。
中山道を歩いて、ディーゼル列車は佐久平周辺で小海線の踏切で見た時以来です。
(一昨年の秋でした)
大きなひな人形屋さんがありました。
中山道で雛人形と言えば鴻巣の町でした。
進んでいくと教会?
モダンな建物と旧型ポスト。
結婚式場でした。
旧街道歩きは神社、仏閣はつきものです。
今渡神社ですが社殿は奥の方にあります。
臨済宗の龍洞寺
道は右にカーブしていきます。
また神社、富士浅間神社です。
大きな橋が見えてきました。
橋のたもとの小さな広場がありました。
今渡の渡し場跡の石碑がありました。
(実際にはここの少し下流あたり)
木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよいと彫ってあり、難所の一つだったと思われます。
ここには昭和初期まで渡し舟があったそうです。
歩行者用の橋があります。
安全にわたることが出来ます。
木曽川は5月7日に南木曽辺りで見て以来の再会です。
季節も変わり、川の流れも穏やかな川です。
川を渡ると太田宿に近づきます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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水色の道から太い黄色い道に入り、水色の道に抜けます。
急に静かな道になりました。
大多線(美濃太田~多治見)の踏切です。
単線非電化です。
踏切を渡ると警報機が鳴り始めました。
ディーゼル列車の通過です。
中山道を歩いて、ディーゼル列車は佐久平周辺で小海線の踏切で見た時以来です。
(一昨年の秋でした)
大きなひな人形屋さんがありました。
中山道で雛人形と言えば鴻巣の町でした。
進んでいくと教会?
モダンな建物と旧型ポスト。
結婚式場でした。
旧街道歩きは神社、仏閣はつきものです。
今渡神社ですが社殿は奥の方にあります。
臨済宗の龍洞寺
道は右にカーブしていきます。
また神社、富士浅間神社です。
大きな橋が見えてきました。
橋のたもとの小さな広場がありました。
今渡の渡し場跡の石碑がありました。
(実際にはここの少し下流あたり)
木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよいと彫ってあり、難所の一つだったと思われます。
ここには昭和初期まで渡し舟があったそうです。
歩行者用の橋があります。
安全にわたることが出来ます。
木曽川は5月7日に南木曽辺りで見て以来の再会です。
季節も変わり、川の流れも穏やかな川です。
川を渡ると太田宿に近づきます。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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タグ:中山道伏見宿
中山道歩き30の3(2017/6/10) 7月15日(土) [中山道を行く]
7月15日、東京ではお盆ですが、ピンときません。
7月15日がお盆というのはどこまでの地域なんでしょう。
・
相変わらず、異常な天気が続いています。
九州の雨は治まったものの一昨日辺りから、愛知、岐阜南部辺りで大変な雨です。
関東北部でもかなり降っているようです。
横浜は雨が降らず暑い晴れの日が続いています。
・
6月10日の中山道の続きです。
気持ちの良い木曽川の川風を感じながら、太田橋を渡ります。
橋の終わりで美濃加茂市に入ります。
<一昨日から美濃加茂市は大雨で大変なようです>
反対側に渡らなければいけません。
黄色の矢印が中山道です。
横断歩道は大回りです。
車の途切れるのを待ってショートカットでわたりました。
ここには中山道の案内がありました。
木曽川の土手道より内側の道を進みます。
こんな船がありましたが渡し舟は無くなった現在、何に使うのでしょう。
7月15日がお盆というのはどこまでの地域なんでしょう。
・
相変わらず、異常な天気が続いています。
九州の雨は治まったものの一昨日辺りから、愛知、岐阜南部辺りで大変な雨です。
関東北部でもかなり降っているようです。
横浜は雨が降らず暑い晴れの日が続いています。
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6月10日の中山道の続きです。
気持ちの良い木曽川の川風を感じながら、太田橋を渡ります。
橋の終わりで美濃加茂市に入ります。
<一昨日から美濃加茂市は大雨で大変なようです>
反対側に渡らなければいけません。
黄色の矢印が中山道です。
横断歩道は大回りです。
車の途切れるのを待ってショートカットでわたりました。
ここには中山道の案内がありました。
木曽川の土手道より内側の道を進みます。
こんな船がありましたが渡し舟は無くなった現在、何に使うのでしょう。
栄光寺というお寺の墓地の横を通ります。
そのまま進んでいくと道が無くなりました。
美濃加茂市文化会館の裏を通ります。
間違いでないか不安になります。
こんな所に一里塚跡の標柱が立っていました。
道は間違いではなさそうです。
舗装道路が無くなった辺りに案内が欲しいです。
表の方へ行ってみました。
渡し舟の形をしたものがありました。
(コンクリート製です)
可児市側では「今渡の渡し」でしたが、こちらでは「太田の渡し」と言います。
元に戻り木曽川の土手に上がってみました。
この辺りは中州が幾つか見えますね。
岡本一平(漫画家、作詞家・・岡本太郎の父)は晩年、美濃加茂市に住んでいたそうです。
昔の中山道と全く同じかどうかわかりませんが土手下の道を進みます。
この先を右に曲がります。
角を曲がって出た所にこれが立っていました。
ここからはこういう街並みになりました。
丁度休憩するところがありました。
伏見宿で休憩してから約10km余り歩いてきました。
この時12時半です。
お握りを食べながらこの先どうするか考えます。
休憩の後進みます。
相変わらず人の姿は見えません。
宿場の中心地に近づきました。
この建物は昔、呉服屋さんだったそうです。
この先は宿場の中心地です。
太田宿の次は鵜沼宿で約10kmぐらいあります。
この日は家に帰る予定なので、ここで終了しました。
この先は次の予定としました。
歩いて10分程で美濃太田駅に着きました。
市の名前は美濃加茂市ですが、駅名は美濃太田です。
<昨日(7月14日)はこの辺り大雨だそうです>
ここの観光案内所でこの先の地図を入手しました。
13:15発の特急ひだ8号に飛び乗るように乗りました。
高山本線は非電化ですのでディーゼル特急です。・・懐かしいな~
高山に行ったのでしょう。
大きなトランクが見えます。
14時過ぎに名古屋に着きました。
JR東海はみんなこのカラーリングですね。
新幹線で帰ります。
6月9日、10日の中山道道中記は終了です。
6月23日、24日にこの続きを歩いて岐阜まで行きました。
それ以降、夏本番になったので現在は休止しています。
・
++++++++++++ 付録 ++++++++++++
6月21日の強風でダメになりかけたミニトマトは何とか育っています。
実が大きくなってきました。
1個だけですがあかくなっている物もあります。
毎年咲いているサンパラソルが今年も沢山花が咲きました。
・
次回は散歩写真その他です。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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タグ:中山道
中山道歩き31の1(2017/6/23) 7月19日(水) [中山道を行く]
昨日の午後やっと雨が降りました。
雷を伴う豪雨でした。
ぬれた路面を見るのは久しぶりでした。
・・・・・・・・・・・・・
雷を伴う豪雨でした。
ぬれた路面を見るのは久しぶりでした。
・・・・・・・・・・・・・
中山道歩きも31日目になりました。
6月9日、10日に大湫から太田まで歩きました。
これで、夏までの中山道は終了かなと思っていましたが、梅雨入りしても雨が降りません。
出来たら、真夏になるまでに岐阜まで行きたいと思っていました。
天気予報を見て6月23日、24日に出かけました。
6月23日の朝、とても良い天気でした。
(自宅近くのバス停から・・6:10)
大船駅から東海道線で小田原へ行き、小田原から新幹線です。
小田原からひかり503号に乗ります。
(ジパング利用ではひかりしか乗れませんが30%引きは大きいです。)
しかもこの列車は小田原を出ると名古屋までノンストップなのでのぞみと大差ありません。
定刻の9:17に名古屋に着き、高山本線に乗り換えです。
ひだ5号が入線してきました。
前回、美濃太田から名古屋まで乗りました。
この日は逆コースです。
普段乗らない列車に乗るのは何となくワクワクします。
定刻10:31に美濃太田駅に着きました。
隣の長良川鉄道のホームには観光列車「ながら」が止まっていました。
有名な水戸岡鋭治氏のデザインだそうです。
二週間ぶりの美濃太田駅です。
駅前で軽くストレッチをして、前回終了したところまで向かいます。
途中のスーパーマーケットで飲み物と食べ物を買いました。
前回の最後はここでした。
こういう行灯が掛かっています。
太田稲荷から始まります。
正面まで行きませんでした。
稲荷神社の前になぜかこんな横断幕が・・
隣の祐泉寺の物のようです。
道は桝形と言われる角になっています。
恐らく直角の曲がり角だったと思われます。
太田稲荷もそうでしたが、祐泉寺も木曽川の方を向いて立っています。
こちらは鐘楼です。
街道沿いには旧十六銀行太田支店の建物があります。
今では住居のような雰囲気ですが不明です。
明治40年に作られた建物です。
その向かいには元旅籠の「小松屋」の建物があります。
休憩所になっていました。
中に入って見ましたが、裏は木曽川ですので、風通しの良い建物でした。
手前の店は営業中でした。
長屋造りの建物でいかにも宿場町と言う雰囲気です。
こんな行灯が付いたところもあります。
良い天気でしたが、それほど暑い日ではありませんでした。
向かいの店のガラスに映ったところで、この日の自撮りです。
ご覧の通りの服装ですので、腕は良く焼けました。
ここは昔からの肥料屋さんです。
続いてこちらは脇本陣林家の建物です。
玄関の雰囲気がいいですね。
現在は住居として使っているそうです。
隣には林家の隠居家がありました。
この建物は中に入れるようになっていましたが立派な建物でした。
そして向かい側には、御代櫻醸造の酒蔵が見えます。
大きな建物でした。
こちらは、太田宿中山道会館という資料館です。
歩き出したところで、休憩する必要もないので中に入りませんでした。
その向かいには、本陣の門だけ残っています。
皇女和宮はここで泊まったそうで、その時に作られた門だそうです。
建物は残っておりません。
この辺りで宿場町らしい主だった建物はなくなり、普通の家が増えてきます。
ここだけ古そうな酒屋さん(小売り)がありました。
旧型ポストが良く似合います。
しばらく歩くと道標がが立っています。
その横に、高札場跡の案内板もありました。
関上有知という文字が彫ってありますが、長良川鉄道に同じ名前の駅があります。
ここは郡上街道との追分です。
当然私は左に曲がります。
太田宿の出口辺りです。
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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中山道歩き31の2(2017/6/23) 7月21日(金) [中山道を行く]
先日の梅雨明け宣言と共に暑さも本格的になりました。
昨日区役所に歩いて出かけましたが、炎天下を歩くのは大変でした。
少し出かけても帰ったらシャワーは欠かせません。
・
現在記事に掲載しているのは、6月23日の事ですので、今ここを歩いたら地獄です。
昨日区役所に歩いて出かけましたが、炎天下を歩くのは大変でした。
少し出かけても帰ったらシャワーは欠かせません。
・
現在記事に掲載しているのは、6月23日の事ですので、今ここを歩いたら地獄です。
前記事の続きです。
追分の道標を左に曲がります。
直進して突き当りを右に曲がります。
いわゆる桝形と言われる道路です。
その先は国道の下を通ります。
左斜めに虚空蔵堂の建物がありました。
天明2年(1782年)の「加茂郡太田村絵図」には既に描かれていました。
また、承久3年(1221年)に起った「承久の乱」の木曽川合戦の戦場だったそうです。
鎌倉時代の事です。
しばらく木曽川の土手を歩きます。
日本ラインと言われる木曽川の流れです。
しかしすぐ終わります。
左の道はサイクリングロードになっています。
中山道は右です。
右手に人家が見えてきました。
人家の間を抜けると小さな神社がありました。
深田神社と言います。
少し休憩した後進みます。
この先は21号線と合流するはずです。
国道歩きになりました。
歩道はありますので大丈夫です。
しばらく進むと坂祝(さかほぎ)町に入りました。
坂祝町は町の税収の三分の一がこの会社だそうです。
すぐ横のコンビニではこんな物も売っていました。
でもこの店は閉店するようで商品はほとんどありませんでした。
しばらく進みます。
この先で道路の反対側に渡り、川沿いの道になります。
この辺りは昔の道路はほとんど残っていないそうです。
美濃太田の方を見ました。
尾籠な話で失礼ですが、トイレに行きたくなりました。
ここのトイレは地図に載っていました。
リュックなどを持ったまま個室に入ると狭いので、車いす用を使いました。
とてもきれいで、ウオッシュレット付きで助かりました。
写真まで撮ってしまいました。
道に戻ります。
この道はこんな名前がついています。
すっきりとして気持ちよく歩けます。
長瀞に似ていますね。
右に見える道路の先まで行かねばなりません。
「日本ラインロマンチック街道」もここまでです。
国道歩きになりました。
この先の信号で大半の車が右折していきました。
私は直進します。
バイパス開通で車が減ったのか、閉鎖したコンビニです。
しばらく行くと右に入るよう案内があります。
案内通りに進みます。
ここは昔からの道のようです。
右はJRの線路です。
道は上り坂になります。
眺めの良いところに来ました。
崖に作られた道です。
真下は国道21号線ですが昔は川の流れがあったと思われます。
巌屋坂の碑と彫ってあります。
道は下り坂になり途中に岩屋観音のお堂がありました。
(写真を取り忘れましたのでネットより借用しています)
再び国道に戻りました。
右上にはJRの線路が通っています。
この先には峠道が待っています。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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右に見える道路の先まで行かねばなりません。
「日本ラインロマンチック街道」もここまでです。
国道歩きになりました。
この先の信号で大半の車が右折していきました。
私は直進します。
バイパス開通で車が減ったのか、閉鎖したコンビニです。
しばらく行くと右に入るよう案内があります。
案内通りに進みます。
ここは昔からの道のようです。
右はJRの線路です。
道は上り坂になります。
眺めの良いところに来ました。
崖に作られた道です。
真下は国道21号線ですが昔は川の流れがあったと思われます。
巌屋坂の碑と彫ってあります。
道は下り坂になり途中に岩屋観音のお堂がありました。
(写真を取り忘れましたのでネットより借用しています)
再び国道に戻りました。
右上にはJRの線路が通っています。
この先には峠道が待っています。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き31の3(2017/6/23) 7月23日(日) [中山道を行く]
今度は秋田県など東北地方に大雨が降っていますね。
日本全国を巡回(?)しているように感じます。
一方、利根川水系は取水制限が始まっています。
自然相手だとどうしようもないですね。
・
中山道が続きます。
坂祝から南下し、岩屋観音堂を見て国道を進みます。
すぐ近くまで山が迫っており道路の右上には列車の線路があります。
昔は国道も、鉄道もないので、崖に沿った道だったようです。
(前記事最後の写真です)
やがて、道路の反対側に、営業していないドライブインの建物がありました。
写真右側に見える様に直角に見えるほどの崖が迫っています。
この辺りから峠になるはずですが入り口が見当たりません。
しばらく進んでからわからないので引き返しここで尋ねました。
教えてもらった通りに進みます。
廃業したドライブインの駐車場跡にありました。
道路工事をしていたので見落としました。
GoogleMapで見るとピンクの丸印の場所です。
水色の丸印の場所から入ります。
階段を下りて、国道と鉄道の下をくぐります。
抜けた所は、道なき道と言ったようなところ、ちょっと不安になります。
間違いではなかったようです。
この先の川沿いは、厳しい崖になるので、峠を越える道を作ったようです。
ここは熊ではなく「まむしに注意」です。
途中から普通の山道になりました。
ここは「うとう峠」と言います。
細久手宿と御嵩宿の間に「謡坂」(うとうさか)がありましたが、ここは「疎う」です。
山賊などが出る疎ましい所だったという事です。
山賊は出ませんがマムシの他にイノシシも出るようです。
こちらの方が疎ましいです。
坂道は終わり少し平らな所に来ました。
また上り坂になり石畳の道になります。
(この石畳は現代のものです)
鎌倉の明月院にも負けないきれいな紫陽花です。
上り坂も最後になりました。
うとう峠で盗賊に襲われ殺された人を弔う供養塔です。
今でもきちんと供え物が並んでいます。
この辺りは一里塚の跡があるはずですが見逃しました。
100番目の一里塚です。
道は下り坂になります。
広場のような所に出ました。
この先はタイムカプセルから出て来たかのような光景が広がります。
そうは言ってもこんなものが残っています。
大きな調整池があります。
住宅街の道を下って行きます。
右側に林が見えてきました。
神社があるようです。
下り坂が急になりました。
正面に犬山城が見えています。
先日、落雷で鯱の一つが無くなったとか、この写真はその前です。
坂を下ったところに小さな地蔵堂がありました。
この辺りは鵜沼宿の東の見附です。
これから先は鵜沼宿に入っていきます。
今日の記事は赤い線の道です。
(赤坂神社の角まで)
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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日本全国を巡回(?)しているように感じます。
一方、利根川水系は取水制限が始まっています。
自然相手だとどうしようもないですね。
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中山道が続きます。
坂祝から南下し、岩屋観音堂を見て国道を進みます。
すぐ近くまで山が迫っており道路の右上には列車の線路があります。
昔は国道も、鉄道もないので、崖に沿った道だったようです。
(前記事最後の写真です)
やがて、道路の反対側に、営業していないドライブインの建物がありました。
写真右側に見える様に直角に見えるほどの崖が迫っています。
この辺りから峠になるはずですが入り口が見当たりません。
しばらく進んでからわからないので引き返しここで尋ねました。
教えてもらった通りに進みます。
廃業したドライブインの駐車場跡にありました。
道路工事をしていたので見落としました。
GoogleMapで見るとピンクの丸印の場所です。
水色の丸印の場所から入ります。
階段を下りて、国道と鉄道の下をくぐります。
抜けた所は、道なき道と言ったようなところ、ちょっと不安になります。
間違いではなかったようです。
この先の川沿いは、厳しい崖になるので、峠を越える道を作ったようです。
ここは熊ではなく「まむしに注意」です。
途中から普通の山道になりました。
ここは「うとう峠」と言います。
細久手宿と御嵩宿の間に「謡坂」(うとうさか)がありましたが、ここは「疎う」です。
山賊などが出る疎ましい所だったという事です。
山賊は出ませんがマムシの他にイノシシも出るようです。
こちらの方が疎ましいです。
坂道は終わり少し平らな所に来ました。
また上り坂になり石畳の道になります。
(この石畳は現代のものです)
鎌倉の明月院にも負けないきれいな紫陽花です。
上り坂も最後になりました。
うとう峠で盗賊に襲われ殺された人を弔う供養塔です。
今でもきちんと供え物が並んでいます。
この辺りは一里塚の跡があるはずですが見逃しました。
100番目の一里塚です。
道は下り坂になります。
広場のような所に出ました。
この先はタイムカプセルから出て来たかのような光景が広がります。
そうは言ってもこんなものが残っています。
大きな調整池があります。
住宅街の道を下って行きます。
右側に林が見えてきました。
神社があるようです。
下り坂が急になりました。
正面に犬山城が見えています。
先日、落雷で鯱の一つが無くなったとか、この写真はその前です。
坂を下ったところに小さな地蔵堂がありました。
この辺りは鵜沼宿の東の見附です。
これから先は鵜沼宿に入っていきます。
今日の記事は赤い線の道です。
(赤坂神社の角まで)
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
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タグ:うとう峠
中山道歩き31の4(2017/6/23) 7月25日(火) [中山道を行く]
先週のカンカン照りの天気は治まりましたが、毎日湿度の高い風で不快です。
南の海には台風が二つも出来ています。
今年の天気は何かいつもと違いますね。
今日は土用の丑の日です。
鰻屋さんは混むでしょう。
・
6月23日の中山道歩きが続きます。
南の海には台風が二つも出来ています。
今年の天気は何かいつもと違いますね。
今日は土用の丑の日です。
鰻屋さんは混むでしょう。
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6月23日の中山道歩きが続きます。
うとう峠を下りてきて、地蔵堂のところまで来ました。
この近くには鵜沼宿の東の見附があったそうです。
東海道を歩いた時には殆どの宿場にこのような案内板がありました。
中山道では初めてのような気がします。
他の宿場でも見附はあったっと思いますが・・・・?
ここにも赤坂見附???・・・ではないようです。
見附跡を過ぎると鵜沼宿に入っていきます。
まず赤坂神社の前を通ります。
鵜沼宿は52番目の宿場町で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25件の宿場町でした。
高札場(復元)が立っていました。
広い交差点を渡ると宿場の中心地になります。
入り口に渓斎英泉の版画のレリーフがありました。
実際にはこの絵ですが、犬山城は鵜沼からは、木曽川を挟んで対岸にあります。
小さな橋を渡ります。
橋を渡ると、元旅籠「絹屋」だった建物があり、現在は資料館になっています。
その先は大きな酒蔵があります。
この酒屋は明治時代の創業です。
江戸時代には旅籠があった場所です。
電柱もなくすっきりした街並みです。
酒蔵に沿って水路が通っています。
江戸時代には道路の中央に水路がある宿場町が多かったと言われます。
鵜沼宿もそうだったようですが、今はこんなところにあります。
向かいは本陣があった場所ですが、数軒の民家があり、この案内板だけです。
すぐ先には復元された脇本陣があります。
平成22年に出来た真新しい建物です。
間取りは当時のままだそうですが、外観は他の宿場町を参考にしたものだそうです。
式台の付いた玄関です。
芭蕉が「野ざらし紀行」の途中でここに泊まったそうで、句碑が立っていました。
全景写真の左の玄関を入ると土間になっていて、中山道の宿場町名を書いた瓢箪が並んでいました。
靴を脱いで上がる事も出来ましたが、奥の庭だけ見せていただきました。
先へ進みます。
旧家が続いています。
数軒の家に、このプレートが付いていました。
鵜沼宿はの中心地は500mぐらいしかありません。
中心地を抜けると、電柱、電線の道になります。
この景観を見ると、日本は後進国ですね。
馬頭観音なども残っています。
この記事のはじめでは鵜沼宿の東の見附跡でしたが、この辺りが西の見附があった所のようです。
石仏石碑が並んでいます。
弘法堂の石造物というそうですがお堂はありませんでした。
進んでいくと、緑に覆われた小山がありました。
衣裳塚古墳と言われる古墳です。
5世紀頃に出来たと推定されています。
立派な門構えのお寺がありました。
空安寺というお寺です。
中に入って見たら、本堂は工事中でした。
16:30頃になりました。
歩道はありませんがスペースはあります。
私が歩いていても、スピードを落とす車はありません。
津島神社という神社があり、横の広場では子供たちが遊んでいます。
この先で国道21号線と合流します。
急にうるさくなりました。
高山本線を越えます。
これも現代の中山道です。
しばらく進むと右側にはJRの各務ケ原駅です。
私は左に曲がって名鉄で岐阜に向かいました。
+++++
JRは「各務ケ原(かがみがはら)」
名鉄は「各務原(かかみがはら)」
市役所のホームページは「各務原(かかみがはら)」
JRだけがおかしいの?
いずれにしても、初めての人は読めません。
+++++
この日は岐阜で泊まりました。
翌日は名電各務原まで戻り、加納宿(岐阜)まで歩きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
・
次回は鎌倉駅周辺です。
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中山道歩き32の1(2017/6/24) 7月29日(土) [中山道を行く]
私の住んでいる横浜南部では、最近ほとんど雨が降っていません。
今年の気候は、例年とは明らかに違う気がします。
神奈川県の水源としては丹沢湖、宮ケ瀬湖がありますがどうなっているのでしょう。
・
6月23日、24日の中山道歩きの記事を続けます。
6月23日は、美濃太田から各務原まで歩きました。(赤い線)
24日は岐阜まで歩きます。(青い線)
23日は岐阜まで名鉄で行き1泊しました。
岐阜という街は初めて行きました。
翌朝、早目に出発しました。
朝7:00頃です。
名鉄電車で、前日の「名電各務原」駅に向かいます。
7:30頃に着いて、準備してスタートです。
Wikipediaによれば昔は「かがみがはら」と言っていたそうです。
昔から呼び名はバラバラで、「かかみがはら」に統一しようという時に変ったそうです。
国道歩きから始まります。
歩道はある様な、無い様な道です。
横をスピードの速い車が通って行きます。
讃岐うどんで伊予製麵?(伊予は愛媛県ですよね)
店の作りは丸亀製麺そっくりです。
調べてみると経営母体は大阪の「阪南理美容株式会社」という散髪屋さんです。
(もっとも丸亀製麺も神戸が本社ですが・・)
歩道がきちんとしていないので反対側(右側)に渡って進みます。
(車が後ろから来るより、前からの方が歩いている方が怖くありません)
道路は4車線の広い道路ですが、旧街道を思わせる物もところどころにあります。
昔は鵜沼宿から次の加納宿までは原野だったそうです。
無いよりましと言った歩道しかありません。
先の方に建築中の建物が見えます。
川崎重工の航空機部部門です。
奥の方に飛行機が置いてありました。
拡大して見ると、自衛隊のT33Aジェット練習機のようです。
横の国道は陸橋になっていますが歩道は横を通ります。
ちょっと静かになりました。
陸橋の下は名鉄の駅でした。
岐阜からの電車で通ったところです。
踏切はありませんので階段を上ることになります。
階段の途中で横を見ると、川崎重工の敷地内に白い屋根が・・
川崎神社と書いてあります。
川崎重工は増築中です。
下は名鉄の線路です。
線路部分を過ぎると階段を下ります。
階段を下りると自衛隊の入り口が見えました。
川崎重工の工場と、自衛隊の入り口が国道の高架下でつながっているような感じです。
(写真はありません・・・門衛がこちらを見ているので撮影は躊躇うような・・・)
黄色い線を歩いてきました。
西へ向かって進みます。
道路の反対側は、航空自衛隊岐阜基地の建物です。
これは管制塔ですね。
ここは現存する飛行場としては一番古い飛行場だそうです。
しばらく進むと、車の多い道は左前方に分かれていきます。
静かな道に戻りました。
六軒の一里塚跡(標柱のみ)がありました。
日本橋から103番目です。
広い境内を持つ神社があります。
神明神社です。
鳥居の横には馬頭観音の幟が沢山立っています。
とりあえず社殿の方へ
特に案内板もない神社でした。
(見落としたかもしれません)
正面に衝立のような物がありました。
(番塀と言うそうです)
伊勢神宮にあり、尾張地方の神社では多いそうです。
馬頭観音は祠の中に入っていました。
三面六臂(さんめんろっぴ)の馬頭観音でした。
お供え物もあり、今でもお世話をする人があるんですね。
スタートしてから2時間近く経ちました。
コンビニで休憩です。
今年の気候は、例年とは明らかに違う気がします。
神奈川県の水源としては丹沢湖、宮ケ瀬湖がありますがどうなっているのでしょう。
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6月23日、24日の中山道歩きの記事を続けます。
6月23日は、美濃太田から各務原まで歩きました。(赤い線)
24日は岐阜まで歩きます。(青い線)
23日は岐阜まで名鉄で行き1泊しました。
岐阜という街は初めて行きました。
翌朝、早目に出発しました。
朝7:00頃です。
名鉄電車で、前日の「名電各務原」駅に向かいます。
7:30頃に着いて、準備してスタートです。
Wikipediaによれば昔は「かがみがはら」と言っていたそうです。
昔から呼び名はバラバラで、「かかみがはら」に統一しようという時に変ったそうです。
国道歩きから始まります。
歩道はある様な、無い様な道です。
横をスピードの速い車が通って行きます。
讃岐うどんで伊予製麵?(伊予は愛媛県ですよね)
店の作りは丸亀製麺そっくりです。
調べてみると経営母体は大阪の「阪南理美容株式会社」という散髪屋さんです。
(もっとも丸亀製麺も神戸が本社ですが・・)
歩道がきちんとしていないので反対側(右側)に渡って進みます。
(車が後ろから来るより、前からの方が歩いている方が怖くありません)
道路は4車線の広い道路ですが、旧街道を思わせる物もところどころにあります。
昔は鵜沼宿から次の加納宿までは原野だったそうです。
無いよりましと言った歩道しかありません。
先の方に建築中の建物が見えます。
川崎重工の航空機部部門です。
奥の方に飛行機が置いてありました。
拡大して見ると、自衛隊のT33Aジェット練習機のようです。
横の国道は陸橋になっていますが歩道は横を通ります。
ちょっと静かになりました。
陸橋の下は名鉄の駅でした。
岐阜からの電車で通ったところです。
踏切はありませんので階段を上ることになります。
階段の途中で横を見ると、川崎重工の敷地内に白い屋根が・・
川崎神社と書いてあります。
川崎重工は増築中です。
下は名鉄の線路です。
線路部分を過ぎると階段を下ります。
階段を下りると自衛隊の入り口が見えました。
川崎重工の工場と、自衛隊の入り口が国道の高架下でつながっているような感じです。
(写真はありません・・・門衛がこちらを見ているので撮影は躊躇うような・・・)
黄色い線を歩いてきました。
西へ向かって進みます。
道路の反対側は、航空自衛隊岐阜基地の建物です。
これは管制塔ですね。
ここは現存する飛行場としては一番古い飛行場だそうです。
しばらく進むと、車の多い道は左前方に分かれていきます。
静かな道に戻りました。
六軒の一里塚跡(標柱のみ)がありました。
日本橋から103番目です。
広い境内を持つ神社があります。
神明神社です。
鳥居の横には馬頭観音の幟が沢山立っています。
とりあえず社殿の方へ
特に案内板もない神社でした。
(見落としたかもしれません)
正面に衝立のような物がありました。
(番塀と言うそうです)
伊勢神宮にあり、尾張地方の神社では多いそうです。
馬頭観音は祠の中に入っていました。
三面六臂(さんめんろっぴ)の馬頭観音でした。
お供え物もあり、今でもお世話をする人があるんですね。
スタートしてから2時間近く経ちました。
コンビニで休憩です。
水分と甘いものを補給しました。
サークルKはファミリーマートと経営統合し、看板はファミリーマートに変ります。
頑張って進みましょう。
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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サークルKはファミリーマートと経営統合し、看板はファミリーマートに変ります。
頑張って進みましょう。
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き32の2(2017/6/24) 7月31日(月) [中山道を行く]
前記事で横浜南部ではほとんど雨が降らないと言ったら、土曜日の夜から降り始めました。
雨が上がったのは昨日の午前でした。
土曜日は、近所の公園で夏祭をしていましたが、雨のため、早目に終わりました。
雨が上がったのは昨日の午前でした。
土曜日は、近所の公園で夏祭をしていましたが、雨のため、早目に終わりました。
昨日は問題なく出来たようです。
昨日、夕方5時半頃です。
今日で7月は終わりです。
8月は例年通りの暑い夏になるのでしょうか。
それとも今のような(梅雨のような)天気が続くでしょうか。
・
中山道の続きです。
コンビニで休憩し、歩きだします。
この辺りは、原野だったところなので道はまっすぐです。
昔は、追剥ぎなどがよく出たと言われています。
今はすっきりした道です。
電柱、電線も見えません。
土曜日の午前9時半頃ですが人の姿が見えません。
(普通の住宅よりオフィスの方が多い様な気がします)
各務原市役所の前を通ります。
土曜日なのでお休みです。
横には大きな公園が広がっていました。
本音を言えば、このような所には案内があっても無くてもいいのですが・・
那珂橋という橋まで来ました。
この先は商店街になっているようです。
電線の地中化もここで終わりのようです。
橋を渡ります。
商店街を進むと地面には、
同じようなものですが絵が違います。
もう一種類ありました。
こうなると、「旧街道歩き」でなくてただの「街歩き」になってしまいます。
この道は主要幹線道路ではありませんが、車は多い通りでした。
凌霄花が綺麗に咲いていました。
この時、6月24日ですが、鎌倉の妙本寺が気がかりになりました。
道の分岐に来ました。
車が多い道は左に分かれていきます。
ここから、「間の宿(あいのじゅく)新加納」に入ります。
急に静かになりました。
大きな白い建物が立っています。
蔵元林本店です。
後ろに酒蔵があります。
「榮一」は創業者林栄一の名前だとか、
日吉神社の前を通ります。
蛙にまつわる伝承があり、狛犬ではなく、狛蛙があるそうですが奥にあるので通過します。
こんな所に蛙が乗っていました。
進んでいくと道はまた分かれます。
中山道は左に見える直進道路です。
こんな案内板があります。
ここには、一里塚跡がありました。
静かな道を進みます。
正面には今尾医院がありますが、昔、新加納を納めていた坪内氏の御典医を努めた今尾医院です。
裏に以前の建物があるようですが非公開です。
突き当りに高札場があったようです。
曲ったところに大きなお屋敷があります。
新加納間の宿の説明です。
鵜沼宿から加納宿の間が長い(約17km)ので立場が出来た。
旗本坪内氏の納める小さな城下町なので、間の宿となった。
通りは続き、この先で左に曲がります。
現代の地図(航空写真)ではこういう道です。
左に曲がってすぐに善林寺の入り口がありました。
道は緩やかな下り坂になります。
長閑な農耕地帯に出ました。
高架の道路は東海北陸自動車道です。
ここを越えると、岐阜市になります。
加納宿はまだ先です。
次回に続きます。
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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タグ:間の宿新加納
中山道歩き32の3(2017/6/24) 8月2日(水) [中山道を行く]
昨日、午前中は晴れて、相変わらず蒸し暑い天気でした。
午後からは空がだんだん暗くなり、2時半頃には雷が鳴り、大雨になりました。
車もライトをつけて走る様な雨でした。
横浜でも一部の地区には避難勧告が出ていました。
6月24日の中山道道中記、続きます。
岐阜市に入りました。
昔からの、静かな住宅街を進みます。
小ぎれいな古民家がありました。
「割烹 太郎」と言う看板がついています。
前方の橋を渡り右に曲がるとすぐ駅なんですが、こんな所で成り立つのか不思議です。
確かに駅はすぐでした。(橋の上より)
所々に空き地があります。
うだつがあるので、長屋のような建物だったのでしょうね。
通りには少し商店などが増えてきました。
この辺りは昔は立場で、茶屋、履物屋などで賑わった所だそうです。
立派な門構えの浄慶寺というお寺がありました。
山号が「市場山」なんて珍しいですね。
信用金庫の前にバス停があり一休みです。
中山道の石柱が埋もれたような感じで立っていました。
新しい家に混じってところどころにこのような家があります。
CAfeの看板が出ていました。
駐車しているのはセリカクーペですね。
午後からは空がだんだん暗くなり、2時半頃には雷が鳴り、大雨になりました。
車もライトをつけて走る様な雨でした。
横浜でも一部の地区には避難勧告が出ていました。
6月24日の中山道道中記、続きます。
岐阜市に入りました。
昔からの、静かな住宅街を進みます。
小ぎれいな古民家がありました。
「割烹 太郎」と言う看板がついています。
前方の橋を渡り右に曲がるとすぐ駅なんですが、こんな所で成り立つのか不思議です。
確かに駅はすぐでした。(橋の上より)
所々に空き地があります。
うだつがあるので、長屋のような建物だったのでしょうね。
通りには少し商店などが増えてきました。
この辺りは昔は立場で、茶屋、履物屋などで賑わった所だそうです。
立派な門構えの浄慶寺というお寺がありました。
山号が「市場山」なんて珍しいですね。
信用金庫の前にバス停があり一休みです。
中山道の石柱が埋もれたような感じで立っていました。
新しい家に混じってところどころにこのような家があります。
CAfeの看板が出ていました。
駐車しているのはセリカクーペですね。
切通とはこの辺りの地名です。
元加納藩主であった安藤信明(信成)が切通陣屋を置きました。
この一帯にあった自領を支配していました。
この場所に大きな屋敷があったそうです。
ここに「だるま工房」!!
ダルマの工場は高崎宿の近くで沢山見かけましたが・・・?
調べてみると、内装屋さんでした。(ひょっとして襖屋さん?)
伊豆神社という神社がありました。
旧街道沿いの集落には、神社お寺が沢山あります。
すぐ横に馬頭観音があります、丁寧に祭ってあります。
左の石柱には「右江戸みち」と彫ってありますがよく読めません。
同じような道が続きます。
広い交差点に出ましたが、中山道は直進です。
昔、酒蔵だったような建物ですがわかりません。
(浄慶寺のホームページにはそのように記されていましたが・・・)
普通の道になりました。
大きな長屋門の家があります。
その先にも古い建物がありますが、白い暖簾が掛かっています。
和風レストランでした。
さらに進みます。
前方に、高架が見えています。
上は鉄道です。
JR東海道本線です。
日本橋を出てから、高崎線、信越本線(高崎~横川)、中央本線(東、西)の沿線を通ってきました。
これから京都までは東海道線の沿線を歩きます。
旧東海道は、桑名、四日市、亀山方面に行きますので東海道本線とは離れます。
その先には名鉄の踏切があります。
右横には大きな屋敷があり、門の扉も柄が彫ってあります。
森家の建物で、岐阜市指定都市景観重要建築物です。
踏切の横に名鉄茶所駅があります。
「ちゃどころ」でなく「ちゃじょ」なんですね。
いよいよ加納宿です。
次回に続きます。
(次回は6月24日道中記最後です)
+++++++++++++++++++++++
+++++++++++++++++++++++
毎年作っているミニトマトができました。
今年は不作です。
なんとかこのくらいです。
本日もご訪問ありがとうございました。
昨日の雨で今日からは暑い晴天になるかと思いましたが、天気予報によればずっと曇り。
梅雨みたいな天気が続きます。
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中山道歩き32の4(2017/6/24) 8月4日(金) [中山道を行く]
8月1日の大雨が明けた2日は小雨が降ったり止んだりの天気で涼しい一日でした。
昨日(3日)の朝は、Tシャツ1枚では寒くて、作務衣を着ていました。
昼間は気温が上がりましたが、それ程でもありませんでした。
湿度が高く、夕方の散歩は、汗びっしょりになりました。
梅雨のような天気が続くようです。
・
6月24日の道中記最終です。
いよいよ加納宿に入ります。
加納宿には加納城と言うお城がありました。
(織田信長の岐阜城とは違います)
加納城は関ケ原の戦いの後、家康の命によりこの地に作られました。
この辺りから見た加納城の光景を広重が版画にしています。
御鮨街道の分岐があります。
尾張街道は熱田まで続く街道で御鮨街道とも呼ばれています。
長良川で獲れた鮎をなれ寿司にして将軍家に納めるためにこの道を使ったらしいです。
江戸まで、5日ほどで届けたと言います。
そちらには行かず直進すると「だんごや」さんがあります。
事前に道順は調べて行きますが、細部はわかりません。
加納宿はこんな道順になります。
だんごやは右から来た最初の曲がり角です。
よく見ると道路の舗装が違います。
橋を渡ります。
橋の欄干にはこんなレリーフがついています。
2番目の曲がり角です。
よくわかります。
曲って直進します。
右手に秋葉神社がありました。
行事の案内が貼ってありますが、この神社の物ではありませんでした。
その向かいには!
クリーニング屋さんのようですが、店名が・・?
進んでいくと・・
どちらか少し迷いました。
一時停止の標識を左に曲がります。
左折して正面には善徳寺という浄土真宗のお寺がありました。
突き当りですので、右に曲がります。
広い通りを横断します。
通り沿いに専福寺というお寺がありました。
信長や、秀吉の朱印状が保管されており、朱印状は岐阜市重要文化財に指定されているそうです。
どちらに行くか説明不要ですね。
橋を渡ります。
紫陽花の季節でした。
加納城大手門跡の交差点に来ました。
手前を右に曲がります。
お昼を過ぎています。
元和六年(1620年)に旅籠を始めた二文字屋です。
今は鰻屋です。
この日は今年前半の最終とするつもりでしたので、ちょっと張り込んで、ここで昼食にしました。
丁度、席が空いていて待たずに案内されました。
「あなたの明日はうなぎ登りです。」・・そうであってほしいですね。
水分補給をきちんとしていましたので、あまりお腹は空いてなく、ご飯少な目でお願いしました。
(これが失敗)
注文してから焼くのでしばらく待ちます。
ちょっとご飯が少なすぎでした。
でもウナギは焼き立てで美味しかったです。
関西風で、蒸さないので皮がパリッとしていますが身は柔らかく美味でした。
帰るころには待っている人が5~6人いました。
ほどほどに(?)お腹を満たしました。
前へ進みます。
昨日(3日)の朝は、Tシャツ1枚では寒くて、作務衣を着ていました。
昼間は気温が上がりましたが、それ程でもありませんでした。
湿度が高く、夕方の散歩は、汗びっしょりになりました。
梅雨のような天気が続くようです。
・
6月24日の道中記最終です。
いよいよ加納宿に入ります。
加納宿には加納城と言うお城がありました。
(織田信長の岐阜城とは違います)
加納城は関ケ原の戦いの後、家康の命によりこの地に作られました。
この辺りから見た加納城の光景を広重が版画にしています。
御鮨街道の分岐があります。
尾張街道は熱田まで続く街道で御鮨街道とも呼ばれています。
長良川で獲れた鮎をなれ寿司にして将軍家に納めるためにこの道を使ったらしいです。
江戸まで、5日ほどで届けたと言います。
そちらには行かず直進すると「だんごや」さんがあります。
事前に道順は調べて行きますが、細部はわかりません。
加納宿はこんな道順になります。
だんごやは右から来た最初の曲がり角です。
よく見ると道路の舗装が違います。
橋を渡ります。
橋の欄干にはこんなレリーフがついています。
2番目の曲がり角です。
よくわかります。
曲って直進します。
右手に秋葉神社がありました。
行事の案内が貼ってありますが、この神社の物ではありませんでした。
その向かいには!
クリーニング屋さんのようですが、店名が・・?
進んでいくと・・
どちらか少し迷いました。
一時停止の標識を左に曲がります。
左折して正面には善徳寺という浄土真宗のお寺がありました。
突き当りですので、右に曲がります。
広い通りを横断します。
通り沿いに専福寺というお寺がありました。
信長や、秀吉の朱印状が保管されており、朱印状は岐阜市重要文化財に指定されているそうです。
どちらに行くか説明不要ですね。
橋を渡ります。
紫陽花の季節でした。
加納城大手門跡の交差点に来ました。
手前を右に曲がります。
お昼を過ぎています。
元和六年(1620年)に旅籠を始めた二文字屋です。
今は鰻屋です。
この日は今年前半の最終とするつもりでしたので、ちょっと張り込んで、ここで昼食にしました。
丁度、席が空いていて待たずに案内されました。
「あなたの明日はうなぎ登りです。」・・そうであってほしいですね。
水分補給をきちんとしていましたので、あまりお腹は空いてなく、ご飯少な目でお願いしました。
(これが失敗)
注文してから焼くのでしばらく待ちます。
ちょっとご飯が少なすぎでした。
でもウナギは焼き立てで美味しかったです。
関西風で、蒸さないので皮がパリッとしていますが身は柔らかく美味でした。
帰るころには待っている人が5~6人いました。
ほどほどに(?)お腹を満たしました。
前へ進みます。
「当分本陣跡」という石柱がありました。
当分本陣とは、幕末に参勤交代の制度が緩和され、往来が増えました。
本陣が足らなくなったため、宿場の有力者の家を当分の間本陣として使用しました。
ここでは宮田家が務めました。
この家は今でも宮田の表札が掛かっていました。
凄い豪邸です。
(屋根を見てください)
進みます。
加納宿は昔の面影はほとんどありません。
本陣跡はこれだけです。
でも横には大きな家がありました。
脇本陣跡もこれだけですが大きな家でした。
そのまま進むと広い通りに出ました。
右を見るとJR岐阜駅が見えます。
この日はここで終了です。
岐阜駅南口に着きました。
前日泊った賑やかな北口と違い、南口は静かな所でした。
岐阜駅から名古屋まで快速電車で行き、新幹線で横浜に帰りました。
6月23日、24日出歩いたのはここです。
(美濃太田~岐阜・・・約25km)
実際は半日ずつです。
23日 28,159歩
24日 27,908歩
今年は4月に木曽福島を出発して、ここまで来ました。
夏は暑いので現在休止中です。
2014年5月19日に日本橋を出発し、延べ32日で加納宿(岐阜)に着きました。
現在消化率77%です。
残りは約120kmです.(上図の青い線)
健康上の問題が発生しない限り、今年中に三条大橋に着くことが出来そうです。
再開は涼しくなってからです。
当分本陣とは、幕末に参勤交代の制度が緩和され、往来が増えました。
本陣が足らなくなったため、宿場の有力者の家を当分の間本陣として使用しました。
ここでは宮田家が務めました。
この家は今でも宮田の表札が掛かっていました。
凄い豪邸です。
(屋根を見てください)
進みます。
加納宿は昔の面影はほとんどありません。
本陣跡はこれだけです。
でも横には大きな家がありました。
脇本陣跡もこれだけですが大きな家でした。
そのまま進むと広い通りに出ました。
右を見るとJR岐阜駅が見えます。
この日はここで終了です。
岐阜駅南口に着きました。
前日泊った賑やかな北口と違い、南口は静かな所でした。
岐阜駅から名古屋まで快速電車で行き、新幹線で横浜に帰りました。
6月23日、24日出歩いたのはここです。
(美濃太田~岐阜・・・約25km)
実際は半日ずつです。
23日 28,159歩
24日 27,908歩
今年は4月に木曽福島を出発して、ここまで来ました。
夏は暑いので現在休止中です。
2014年5月19日に日本橋を出発し、延べ32日で加納宿(岐阜)に着きました。
現在消化率77%です。
残りは約120kmです.(上図の青い線)
健康上の問題が発生しない限り、今年中に三条大橋に着くことが出来そうです。
再開は涼しくなってからです。
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次回から普通の記事に戻ります。
本日もご訪問ありがとうございました。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き33の1(2017/9/29) 10月3日(火) [中山道を行く]
先週の金曜日から続いた気持ち良い晴天も一昨日まででした。
昨日は曇り空、昨晩、少し雨が降ったようです。
・
前記事で掲載しました日焼けした腕も赤い色が落ち着いて褐色になりました。
足の疲れはまだ少し残っています。
今日からしばらく中山道の記事が続きます。
タイトルに記してある、33は通算33日目です。33日目の1番目の記事です。
カッコ内の日付は実際歩いた日付けで後ろの日付はブログ掲載日です。
・
下の図は今まで歩いてきたところです。
(日付はスタート年月です)
今年の前半は、6月24日に加納宿まで来ました。(その時の記事はこちら)
今回は岐阜(加納宿)からスタートします。
今のところ、今年中には京都三条大橋に着くつもりです。
9月30日、家を6時過ぎに出発しました。
大船駅から小田原へ行き、8:08のひかり号に乗ります。
この写真は反対側のホームに入ってきたこだま号東京行きです。
名古屋で下車して、東海道線に乗り換えて岐阜駅には9:50頃到着しました。
岐阜の天気は快晴でした。
岐阜駅の南口から出発です。
この日の道中に、食事をする所、コンビニがあるかどうかわからないので。買い物をします。
コンビニおにぎりは持っていますが、前回店頭を通ったパン屋さんに寄り道です。
店は古風な普通の家です。(隣に工場があります)
駅から数分、旧中山道に着きました。
この写真は6月に通ってきた道です。(中山道は舗装の色が違います)
加納宿の中心地はすでに通り過ぎています。
歩き出した道は両端の舗装の色が違います。
小さな祠が建っていますが、後ろには高層マンションが立っています。
昔の街道と言っても、今は裏道です。
静かな通りです。
ちょっと変わった郵便ポストがあったので、パチリ。
ここらあたりは加納宿の西の端のようです。
広い通りを横切ります。
信号待ちが長いです。
写真の自転車に乗った女性が「中山道を歩いていらっしゃるんですか」と話しかけてきました。
二言、三言お話ししました。
正面には古風な自転車屋さんが見えます。
信号を渡ると普通の舗装になりました。
立ち止まって地図を見ているると、「一里塚跡をお探しですか」と声を掛けられました。
この方です。
教えてもらった通りに行くとありました。
(加納の一里塚・106番目です)
時折こんな案内がありますが、市などが作ったものではありません。
やがて東海道線の線路に突き当たりました。
これから先の中山道はおおむね東海道本線に沿って進みます。
しばらく行くと、この表示があります。
この先を右に曲がります。
しばらく行くと広い交差点に出ました。
六差路ですなので、進む方向は注意が必要です。
真っすぐの道を進みます。
神社がありました。(多羅野八幡宮)
左右に天満社、秋葉神社があります。
この近くの茶屋では「だらり餅(あんころ餅)」が売られて評判だったとか。
進んでいくと、水路に沿った道になりました。
この後道は突き当たりますが、案内表示は全くありません。
中山道を歩く人にとって、親切な人は多いけど、道案内は不親切です。(個人の感想)
事前に用意した地図、ガイドブック、スマホの画面で確かめます。
乙津寺に着きました。
路地を曲がると、
稲荷神社がありました。
ちょっと覗いてみると、駐車場の奥に社がありました。
こちらが乙津寺(おっしんじ)の山門です。
通称鏡島(かがしま)弘法、別名梅寺と呼ばれ、こちらの呼び方が一般的だそうです。
真言宗のお寺として、建立されたが、その後改宗して今は臨済宗だそうです。
臨済宗のお寺で、弘法とは・・?こんなお寺は初めてです。
中は広々として毎月21日は縁日で賑わうそうです。
お参りして、小紅の渡しに向かいます。
駅から、休憩するところもコンビニもありませんでした。
その前に用足しを、・・・ 善人でなければ使えません(?)
小紅の渡しは次回に。
本日もご訪問ありがとうございました。
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昨日は曇り空、昨晩、少し雨が降ったようです。
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前記事で掲載しました日焼けした腕も赤い色が落ち着いて褐色になりました。
足の疲れはまだ少し残っています。
今日からしばらく中山道の記事が続きます。
タイトルに記してある、33は通算33日目です。33日目の1番目の記事です。
カッコ内の日付は実際歩いた日付けで後ろの日付はブログ掲載日です。
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下の図は今まで歩いてきたところです。
(日付はスタート年月です)
今年の前半は、6月24日に加納宿まで来ました。(その時の記事はこちら)
今回は岐阜(加納宿)からスタートします。
今のところ、今年中には京都三条大橋に着くつもりです。
9月30日、家を6時過ぎに出発しました。
大船駅から小田原へ行き、8:08のひかり号に乗ります。
この写真は反対側のホームに入ってきたこだま号東京行きです。
名古屋で下車して、東海道線に乗り換えて岐阜駅には9:50頃到着しました。
岐阜の天気は快晴でした。
岐阜駅の南口から出発です。
この日の道中に、食事をする所、コンビニがあるかどうかわからないので。買い物をします。
コンビニおにぎりは持っていますが、前回店頭を通ったパン屋さんに寄り道です。
店は古風な普通の家です。(隣に工場があります)
駅から数分、旧中山道に着きました。
この写真は6月に通ってきた道です。(中山道は舗装の色が違います)
加納宿の中心地はすでに通り過ぎています。
歩き出した道は両端の舗装の色が違います。
小さな祠が建っていますが、後ろには高層マンションが立っています。
昔の街道と言っても、今は裏道です。
静かな通りです。
ちょっと変わった郵便ポストがあったので、パチリ。
ここらあたりは加納宿の西の端のようです。
広い通りを横切ります。
信号待ちが長いです。
写真の自転車に乗った女性が「中山道を歩いていらっしゃるんですか」と話しかけてきました。
二言、三言お話ししました。
正面には古風な自転車屋さんが見えます。
信号を渡ると普通の舗装になりました。
立ち止まって地図を見ているると、「一里塚跡をお探しですか」と声を掛けられました。
この方です。
教えてもらった通りに行くとありました。
(加納の一里塚・106番目です)
時折こんな案内がありますが、市などが作ったものではありません。
やがて東海道線の線路に突き当たりました。
これから先の中山道はおおむね東海道本線に沿って進みます。
しばらく行くと、この表示があります。
この先を右に曲がります。
しばらく行くと広い交差点に出ました。
六差路ですなので、進む方向は注意が必要です。
真っすぐの道を進みます。
神社がありました。(多羅野八幡宮)
左右に天満社、秋葉神社があります。
この近くの茶屋では「だらり餅(あんころ餅)」が売られて評判だったとか。
進んでいくと、水路に沿った道になりました。
この後道は突き当たりますが、案内表示は全くありません。
中山道を歩く人にとって、親切な人は多いけど、道案内は不親切です。(個人の感想)
事前に用意した地図、ガイドブック、スマホの画面で確かめます。
乙津寺に着きました。
路地を曲がると、
稲荷神社がありました。
ちょっと覗いてみると、駐車場の奥に社がありました。
こちらが乙津寺(おっしんじ)の山門です。
通称鏡島(かがしま)弘法、別名梅寺と呼ばれ、こちらの呼び方が一般的だそうです。
真言宗のお寺として、建立されたが、その後改宗して今は臨済宗だそうです。
臨済宗のお寺で、弘法とは・・?こんなお寺は初めてです。
中は広々として毎月21日は縁日で賑わうそうです。
お参りして、小紅の渡しに向かいます。
駅から、休憩するところもコンビニもありませんでした。
その前に用足しを、・・・ 善人でなければ使えません(?)
小紅の渡しは次回に。
本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き33の2(2017/9/29) 10月5日(木) [中山道を行く]
昨夜は中秋の名月でしたが、雲が多くほとんど見えませんでした。
夜9時ごろ雲の合間に何とか見えていました。
今朝は冷え込むという事でしたが、それほどでもありません。
今日の横浜は晴れの予報です。
中山道の続きです。
善人のtakenokoはすっきりして小紅の渡しに向かいます。
乙津寺の裏に乗り場があります。
長良川の堤防に上がります。
堤防にあがると河川敷が広いので川の水面は見えません。
ここはきちんと表示があるので間違いません。
階段を下りて河川敷を進みます。
乗り場に着きました。
しかし船は対岸にいます。
置いてある白い旗を振ると迎えに来てくれるそうですが、見落としたので船は来ません。
川幅は100mぐらいなので大声を出せば聞こえます。
なんとか通じました。
小紅の渡しとは(ネット情報より)
長良川を渡る岐阜市で唯一の渡し舟。県道(文殊茶屋新田線/173号)の一部となっています。
遊覧船とは違い、交通手段としてご利用できます。・・・無料です
史実に登場するのは元禄5年(1692年)です。
川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えました。
・
下の地図をご覧ください。
赤い線が中山道です。
河渡の渡しは明治14年に橋が架けられるまで続いたとか。
舟が着き、救命胴衣を着けて岸を離れます。
先に見える橋は河渡橋です。
東海道、中山道どちらも渡しの川は多くありますが、実際に渡し舟に乗ったのは初めてです。
貴重な経験になりました。
こちらは反対側です。
船頭さんが今朝は御嶽山が見えていたけと言ってました。
渓斎英泉の版画です。
この辺りでも鵜飼いをしていたかどうかは知りません。
岐阜城が見えます。
川幅は100mあまりなので、2分位で着きます。
河渡の渡しの場所まで、堤防を歩きます。
大きなゴルフ練習場がありました。
平日なので打っている人は少なめでした。
舟から見た岐阜城は土手の上からもよく見えます。
西の方を見ると伊吹山が見えました。
こんな幟が立っていました。
10月の最終日曜日にお祭りがあるらしいです。
約20分位で、河渡橋が見えてきました。
河渡橋を越えた所から河渡宿が始まるのですが、わかりません。
右手の家が並んでいる場所です。
結局何も案内が無いまま進んで、土手の上からこの建物が見えたので階段を下りました。
馬頭観音堂があります。
荷駄役の人達が天保13年に銭百文づつ寄進し、道中と家内安全・五穀豊穣を祈願し建てたもの。
濃尾地震をはじめ、洪水、空襲で何度も壊れてしまったようです。
中にはこんな石像がありました。
ここから河渡(ごうど)宿が始まります。
こんなものが立っており、宿場の保存に力を入れているかと思いましたが、
・
その前にお腹が空いたので、こんなところでおにぎりを食べます。
お握り1個食べて、駅前で買ったパンを取り出しました。
大きなパンでずっしりと重いパンです。(120円)
たっぷりゴマがついて、中は餡子がたっぷりでした。
やっとまともな案内が立っていました。
本当は曲がり角にある方が助かります。
河渡宿は54番目の宿場町で、一番小さな規模の宿場町だったようです。
旧宿場の町並みは戦災でほとんど焼けてしまったようです。
宿場町の途中に一里塚があったようです。
奥には小さな祠が二つありました。
宿場町の町並みは300mぐらいしかなかったそうで、すぐ出口に来ました。
昔の名残は全くない所でした。
そのまま進む道は静かな道でした。
ここは歩道があります。
この案内をいくつか見かけましたが、分岐点にきちんとつけて欲しいです。
歩道のないところもあります。
幹線道路ではないですが、結構車が来ます。
午後2時過ぎにこんな店を見つけました。
休憩です。
ここはケーキ屋さんなので、ケーキも頂きました。
ケーキの横にはソフトクリームも付いています。
これから先は長いです。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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夜9時ごろ雲の合間に何とか見えていました。
今朝は冷え込むという事でしたが、それほどでもありません。
今日の横浜は晴れの予報です。
中山道の続きです。
善人のtakenokoはすっきりして小紅の渡しに向かいます。
乙津寺の裏に乗り場があります。
長良川の堤防に上がります。
堤防にあがると河川敷が広いので川の水面は見えません。
ここはきちんと表示があるので間違いません。
階段を下りて河川敷を進みます。
乗り場に着きました。
しかし船は対岸にいます。
置いてある白い旗を振ると迎えに来てくれるそうですが、見落としたので船は来ません。
川幅は100mぐらいなので大声を出せば聞こえます。
なんとか通じました。
小紅の渡しとは(ネット情報より)
長良川を渡る岐阜市で唯一の渡し舟。県道(文殊茶屋新田線/173号)の一部となっています。
遊覧船とは違い、交通手段としてご利用できます。・・・無料です
史実に登場するのは元禄5年(1692年)です。
川下にあった河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えました。
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下の地図をご覧ください。
赤い線が中山道です。
河渡の渡しは明治14年に橋が架けられるまで続いたとか。
舟が着き、救命胴衣を着けて岸を離れます。
先に見える橋は河渡橋です。
東海道、中山道どちらも渡しの川は多くありますが、実際に渡し舟に乗ったのは初めてです。
貴重な経験になりました。
こちらは反対側です。
船頭さんが今朝は御嶽山が見えていたけと言ってました。
渓斎英泉の版画です。
この辺りでも鵜飼いをしていたかどうかは知りません。
岐阜城が見えます。
川幅は100mあまりなので、2分位で着きます。
河渡の渡しの場所まで、堤防を歩きます。
大きなゴルフ練習場がありました。
平日なので打っている人は少なめでした。
舟から見た岐阜城は土手の上からもよく見えます。
西の方を見ると伊吹山が見えました。
こんな幟が立っていました。
10月の最終日曜日にお祭りがあるらしいです。
約20分位で、河渡橋が見えてきました。
河渡橋を越えた所から河渡宿が始まるのですが、わかりません。
右手の家が並んでいる場所です。
結局何も案内が無いまま進んで、土手の上からこの建物が見えたので階段を下りました。
馬頭観音堂があります。
荷駄役の人達が天保13年に銭百文づつ寄進し、道中と家内安全・五穀豊穣を祈願し建てたもの。
濃尾地震をはじめ、洪水、空襲で何度も壊れてしまったようです。
中にはこんな石像がありました。
ここから河渡(ごうど)宿が始まります。
こんなものが立っており、宿場の保存に力を入れているかと思いましたが、
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その前にお腹が空いたので、こんなところでおにぎりを食べます。
お握り1個食べて、駅前で買ったパンを取り出しました。
大きなパンでずっしりと重いパンです。(120円)
たっぷりゴマがついて、中は餡子がたっぷりでした。
やっとまともな案内が立っていました。
本当は曲がり角にある方が助かります。
河渡宿は54番目の宿場町で、一番小さな規模の宿場町だったようです。
旧宿場の町並みは戦災でほとんど焼けてしまったようです。
宿場町の途中に一里塚があったようです。
奥には小さな祠が二つありました。
宿場町の町並みは300mぐらいしかなかったそうで、すぐ出口に来ました。
昔の名残は全くない所でした。
そのまま進む道は静かな道でした。
ここは歩道があります。
この案内をいくつか見かけましたが、分岐点にきちんとつけて欲しいです。
歩道のないところもあります。
幹線道路ではないですが、結構車が来ます。
午後2時過ぎにこんな店を見つけました。
休憩です。
ここはケーキ屋さんなので、ケーキも頂きました。
ケーキの横にはソフトクリームも付いています。
これから先は長いです。
次回に続きます。
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中山道歩き33の3(2017/9/29) 10月7日(土) [中山道を行く]
一昨日から急に寒くなりました。
昨日は室内でずっと20度でした。
着るもの、寝具など晩秋の装いです。
昨夕から雨が降り出し、今でも続いています。
昨日は室内でずっと20度でした。
着るもの、寝具など晩秋の装いです。
昨夕から雨が降り出し、今でも続いています。
・
前記事の続きです。
前記事の続きです。
コーヒーとケーキの休憩、あまり長くいると時間が足りません。
店を出ると、小さなお堂のような物がありました。
彼岸花も咲いています。
しばらく進むと糸貫川と言う川を越えます。
天気もよく綺麗な光景が広がります。
雲も綺麗でした。
すぐ横には延命地蔵の幟が立っているお堂がありました。
この先は道が細くなります。
しかも抜け道になっているようで車の往来が多いです。
一応、車道の線は引いてありますが、この程度です。
側溝のふたが、浮いているのは、つまづきやすく注意が必要です。
ここで転んで、車が来たら・・・・怖いだけではありません。
道は狭いけど、昔の雰囲気は残っています。
長い壁、大きな蔵もあります。
こんな案内板がありました。
この辺りは幕府の直轄地であったたため代官所があったようです。
後ろの建物は普通の民家です。
道幅は広くなりましたが、車はスピードを落とさずに走るので怖いです。
(ストリートビューの画像です)
由緒ある大木かと思いましたが、何の表示もありませんでした。
横の畑に、イチジクが沢山生っていました。
五六川という川を渡ります。
五六とはこの先の美江寺宿が56番目と言うことで名前が付けられたとか。
しかし、美江寺宿は55番目の宿場町です。
江戸時代は江戸を1番目と数えたようです。
こんな景色を見るのは久しぶりです。
景色は良いのですが、道路はこんな状況です。
歩道はないし、車は多い、車が途切れるまで待たねばなりません。
車が途切れた時に進みましょう。
後ろに伊吹山が見えます。
踏切が見えてきました。
樽見鉄道の踏切です。
美江寺駅が見えます。
非電化で、元国鉄の路線です。
千葉の小湊鉄道の駅になんとなく似ています。
列車が来ればいいですが、1時間に1本です。
踏切を過ぎると美江寺宿に入っていきます。
雰囲気はそれらしく見えます。
一里塚跡がありました。
この建物は酒屋さんで、昔は造り酒屋だったそうですが、今は小売店です。
この辺りは濃尾地震(明治24年・1891)の震源地に近くほとんど壊れたそうです。
この建物だけ壊れなかったそうです。
店の名前は「布屋」です。(美濃菊は養老町のお酒です)
美江神社の入り口に高札場の案内がありました。
復元されたものです。
隣には大きな美江寺宿の石碑が立っています。
美江神社の社殿です。
この時、午後3時でした。
これから先は8km位あります。
今は日暮が早いので、悩みましたが、先に進みます。
美江寺宿の旧庄屋和田家の建物です。
美江寺宿の本陣跡の案内が立っていました。
この家かどうかはわかりません。
美江寺宿は本陣1軒、脇本陣はなく旅籠が11軒の小さな宿場だったようです。
宿場の端に来ました。
赤坂方面(右)に行きます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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中山道歩き33の4(2017/9/29) 10月9日(月) [中山道を行く]
寒くなったと思っていたら、昨日は季節が逆戻りして暑い日になりました。
昨夕の散歩ではTシャツ1枚の人を沢山見かけました。
寝具もまた薄い布団を引っ張り出しました。
今年の天気は本当に変な天気です。
・
昨夕の散歩ではTシャツ1枚の人を沢山見かけました。
寝具もまた薄い布団を引っ張り出しました。
今年の天気は本当に変な天気です。
・
美江寺宿を出ると、千手観音のお堂が建っています。
こういう場所に建っていると、風情があります。
その横には川が流れています。(犀川といいます)
鴨が沢山います。
歌川広重の版画はこの辺りと言われています。
しばらく行くと突き当りになり、左右に道が分かれています。
道案内が無いので、どちらが中山道かわかりません。
(googleストリートビューの画像です)
正面には、千躰寺と言う小さなお寺がありました。
中には千躰の仏さまがあるとか、見ることは出来ませんでした。
右側の道が正しいだろうと思って進みました。
中には千躰の仏さまがあるとか、見ることは出来ませんでした。
右側の道が正しいだろうと思って進みました。
この時はまだ勘が冴えていましたので約100mほど行ってから間違いに気づきました。
引き返して進みます。
進んでいくと、瑞穂市大月浄水公園に着きました。
こんな案内番がありました。
岐阜県内の宿場名を彫った石柱が並んでいます。
ここから揖斐川に向かって田圃の中を進みます。
昔は松並木があったそうです。
おやおや!、アオダイショウが道路を横断しています。
道は揖斐川に突き当り、橋を渡らなければなりません。
この上が橋に続く道路です。
土手が高いので、いったん左に曲がり、ちょっと逆戻りをして橋に出ました。
揖斐川にかかる鷺田橋です。
静かな流れです。
橋を渡ると歩道は途切れ、歩道橋になります。
歩道橋を渡ります。
道は呂久と言う集落に入っていきます。
お寺がありました。
良い名前ですね。
小さなお寺でしたが、立派な鐘楼もあります。
呂久の集落を進みます。
この先に、中山道の名所、「小簾紅園」があります。
しばらく進むと、立派な門がありました。
昔は、揖斐川を渡る呂久の渡しがありました。
船頭頭(せんどうがしら)の馬淵家の門です。
さらに進むと、小簾紅園に着きました。
案内板内容概略です。
皇女和宮(かずのみや)が徳川第14代将軍家茂公に嫁ぐため中山道を江戸に向かいました。
その時呂久川(現在の揖斐川)を船で渡る時、紅葉しているもみじを玉簾の中から見て
「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と詠んだ。
現在の揖斐川は、大正14年に改修工事で東の方に移された。
綺麗な庭園が造ってありました。
小簾紅園を過ぎてしばらく行くと小さな川に出ました。
ここから大垣市です。
土手を歩きます。
土手下には小さな神社がありました。
この辺りの氏神様でしょうか。
道は市街地に近くなりました。
この日の最終目的地は赤坂宿の2kmほど手前の養老線東赤坂駅です。
あと3km位です。
土手に彼岸花が沢山咲いています。
傾いた太陽の日差しが当たっています。
ここまで何とか来ましたが、道間違いをしてしまいました。
この道は間違いです。
何かおかしいと思い通りがかりの人に尋ねました。
その方は大垣駅まで歩いた方が早いと教えてくれました。
(この日は大垣駅前のホテルを予約していました)
駅まで歩くことにしました。
ところが駅まではかなり時間が掛かりました。
(後で調べたら東赤坂駅の方が近かった)
日暮になりました。
途中で足が痛くなり、スピードも遅くなります。
やっとの思いでホテルに到着したら、足の痙攣。
水分は3Lぐらいは飲んでいましたが、それでも足らずさらに2Lぐらい飲んで小康状態になりました。
この日は道に迷ったり、予定にはなかった道を歩いたりしました。
約4万歩(家を出てから、駅構内などを含みます)歩きました。
秋の日暮れは早いので、美江寺の駅で止めるべきでした。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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中山道歩き34の1(2017/9/30) 10月13日(金) [中山道を行く]
しばらく続いた真夏のような暑さも、昨日が一番だったような気がします。
天気予報です
昨日の最高気温は27度でした。
いきなり10度以上も下がります。
来週はこんな天気でしばらく太陽の光が見えないようです。
++++++++++++++++++++++++++++++++
9月29日、30日の中山道歩きの続きです。
9月30日の朝、前日に痙攣をおこしていた足も問題ありません。
ホテルの窓から見える伊吹山です。
晴れた日に東海道新幹線に乗ると、関ケ原近辺で見える標高1377mの山です。
前日に続き、この日も良い天気です。
延べ34日目になりました。
身支度を整え、ゆっくりと朝食を摂りホテルを出たのは8:30頃でした。
大垣駅です。
前日に道を間違えた場所までタクシーで移動しました。
正しい道を歩き始めました。
9:00頃です。
歩き出すと、きちんと案内が出ていました。
静かな道になりました。
田んぼや畑が広がっています。
コスモスの花が色を添えます。
廃車のような大きなトラックの後ろに神社が見えます。
すさのおと言えば「須佐之男」と言う字しかしりませんでした。
難しい字ですね。
全国に沢山あるらしいです。
通っている道は西に向かって進みますが、横切るようにいくつかの小さな川が流れています。
時にはこんな景色も見ることが出来ます。
すぐに住宅地になりました。
秋祭りでしょうか、幟が立っています。
真宗大谷派の長徳寺と言うお寺が続きます。
小さな交差点に小さな聖観世音菩薩が立っていました。
ここを過ぎると広い田んぼが広がっています。
新しい道路はまだ工事中でした。
中仙道七回り半と読めます。
この先に七つのカーブがあるのでしょうか。
それにしても「半」は何でしょう。
また小さな水路がありました。
どこにも彼岸花が咲いています。
柿の実もたわわに生っています。
ここは道案内があるので間違えません。
(右に曲がります)
そしてこの先の曲がり角にもついています。
伊吹山に引っ張れるようです。
赤い門の家がありました。
この辺りから家が多くなります。
しばらく進むと、東赤坂の駅に着きました。
前日に、ここまで歩く予定でした。
東赤坂は養老鉄道の駅です。
ここまで約50分でした。
ここで電車には乗りません。
駅から少し歩きこの場所で休憩しました。
座るところが無いので、右端に見える土留に座って休憩しました。
ここから赤坂宿に入っていきます。
次回に続きます。
・
この2日間で腕が日焼けしました。
家に帰った時は赤くてヒリヒリしていました。
2,3日で褐色になりましたが、今週になってからの晴天でさらに濃くなりました。
(昨日撮影)
今後はこれ以上は濃くならないでしょう。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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タグ:中山道
中山道歩き34の2(2017/9/30) 10月15日(日) [中山道を行く]
一昨日より気温が下がり、時々止むことはありますが雨が降っています。
秋雨前線の停滞で、肌寒い天気が続くようです。
もう半袖を出すことは無いでしょうね。
中山道道中記34日目が続きます。
東赤坂の駅を過ぎて休憩しました。(前記事最後の写真です)
分岐点ですがどちらかな?
よく見れば案内がありました。
赤坂宿は左の道を行きます。
静かな昔ながらの道を進みます。
進んでいくと小さな川があり、白山神社がありました。
神社を過ぎると、一里塚跡(110番目)の石柱が立っていました。
道を歩いているといろんなものが目につきます。
こんな所で山形のそば?
小さな神社がありました。
彦根の近くに多賀大社と言う有名な神社がありますが、関係あるでしょう。
今後の行程で立ち寄ってみたいところです。
この日は土曜日、どこかで運動会をしているような音が聞こえます。
この小学校のようです。
街灯に赤坂宿の看板ついています。
いよいよ赤坂宿に入ります。
赤坂と言う地名は東京の赤坂が有名ですが、全国に沢山あるようです。
赤坂宿と言う宿場は東海道にもあります。
東海道の赤坂宿を通過したのは7年前2010年8月4日でした。
(この頃はまだ若かったので・・60歳は過ぎていますが・・真夏でも街道歩きをしていました)
やがて杭瀬川という橋に差し掛かりました。
(写真を撮るのを忘れました)
橋を渡り街並みに入っていきます。
とても大きな屋敷がありました。
表札には会社名が書いてあります。
大きな火の見櫓が見えてきました。
拡大して見ると半鐘も付いていました。
小さな川があり、綺麗な建物が立っています。
ここは赤坂港という港があったところです。
ここは、昔、川を利用した水運の要所だったということです。
大きな常夜灯が立っています。
杭瀬川の本流はここだったようです。
この建物は明治8年に建てられた警察だったそうです。
数回移築されて利用されたようですが、ここに復元建築されて今は公民館です。
警察の赤ランプが付いています。
先へ進みます。
踏切が見えてきました。
ここで「鉄」のお話
赤坂宿の北には金生山という山があり、石灰石がとれます。
その石灰石を運ぶために、西濃鉄道という鉄道があります。
(西濃運輸とは関係なさそうです)
ここは西濃鉄道市橋線と言い、貨物列車が通るだけの鉄道です。
(一日に一往復程度と思われます・・しかも毎日ではない)
昼飯線は廃線になっています。
この踏切の南の方にJR美濃赤坂駅があります。
本数は少ないですが、人が乗れる電車が来ています。
(大垣から美濃赤坂までは地図で見ると東海道本線となっています。いわゆる盲腸線?)
全国JR線乗車を目指している仙台のJ氏は乗ったのかな
その南に、関ケ原の合戦の時に東軍(徳川家康)の本陣があった場所があります。
(合戦当日は関ケ原の桃配山へ移動します)
踏切から美濃赤坂方面を見た所です。
殆ど列車は通らないので草が生えて線路が見えません。
廃線跡かと思いました。
踏切を過ぎると、きれいな呉服屋さんがありました。
(この町には綺麗すぎる店・・昔ながらの呉服屋さんの方がピッタリだけど・・)
昔からの呉服屋さんでしょうね、大きな屋敷でした。
すぐに、赤坂宿本陣跡に着きました。
何も残っていません。
和宮降嫁の時はここが宿泊所だったようです。
ここで休憩です。
続きます
・
本日もご訪問ありがとうございました。
諸事情により次回(17日)の更新はお休みします。
19日は更新予定です。
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秋雨前線の停滞で、肌寒い天気が続くようです。
もう半袖を出すことは無いでしょうね。
中山道道中記34日目が続きます。
東赤坂の駅を過ぎて休憩しました。(前記事最後の写真です)
分岐点ですがどちらかな?
よく見れば案内がありました。
赤坂宿は左の道を行きます。
静かな昔ながらの道を進みます。
進んでいくと小さな川があり、白山神社がありました。
神社を過ぎると、一里塚跡(110番目)の石柱が立っていました。
道を歩いているといろんなものが目につきます。
こんな所で山形のそば?
小さな神社がありました。
彦根の近くに多賀大社と言う有名な神社がありますが、関係あるでしょう。
今後の行程で立ち寄ってみたいところです。
この日は土曜日、どこかで運動会をしているような音が聞こえます。
この小学校のようです。
街灯に赤坂宿の看板ついています。
いよいよ赤坂宿に入ります。
赤坂と言う地名は東京の赤坂が有名ですが、全国に沢山あるようです。
赤坂宿と言う宿場は東海道にもあります。
東海道の赤坂宿を通過したのは7年前2010年8月4日でした。
(この頃はまだ若かったので・・60歳は過ぎていますが・・真夏でも街道歩きをしていました)
やがて杭瀬川という橋に差し掛かりました。
(写真を撮るのを忘れました)
橋を渡り街並みに入っていきます。
とても大きな屋敷がありました。
表札には会社名が書いてあります。
大きな火の見櫓が見えてきました。
拡大して見ると半鐘も付いていました。
小さな川があり、綺麗な建物が立っています。
ここは赤坂港という港があったところです。
ここは、昔、川を利用した水運の要所だったということです。
大きな常夜灯が立っています。
杭瀬川の本流はここだったようです。
この建物は明治8年に建てられた警察だったそうです。
数回移築されて利用されたようですが、ここに復元建築されて今は公民館です。
警察の赤ランプが付いています。
先へ進みます。
踏切が見えてきました。
ここで「鉄」のお話
赤坂宿の北には金生山という山があり、石灰石がとれます。
その石灰石を運ぶために、西濃鉄道という鉄道があります。
(西濃運輸とは関係なさそうです)
ここは西濃鉄道市橋線と言い、貨物列車が通るだけの鉄道です。
(一日に一往復程度と思われます・・しかも毎日ではない)
昼飯線は廃線になっています。
この踏切の南の方にJR美濃赤坂駅があります。
本数は少ないですが、人が乗れる電車が来ています。
(大垣から美濃赤坂までは地図で見ると東海道本線となっています。いわゆる盲腸線?)
全国JR線乗車を目指している仙台のJ氏は乗ったのかな
その南に、関ケ原の合戦の時に東軍(徳川家康)の本陣があった場所があります。
(合戦当日は関ケ原の桃配山へ移動します)
踏切から美濃赤坂方面を見た所です。
殆ど列車は通らないので草が生えて線路が見えません。
廃線跡かと思いました。
踏切を過ぎると、きれいな呉服屋さんがありました。
(この町には綺麗すぎる店・・昔ながらの呉服屋さんの方がピッタリだけど・・)
昔からの呉服屋さんでしょうね、大きな屋敷でした。
すぐに、赤坂宿本陣跡に着きました。
何も残っていません。
和宮降嫁の時はここが宿泊所だったようです。
ここで休憩です。
続きます
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本日もご訪問ありがとうございました。
諸事情により次回(17日)の更新はお休みします。
19日は更新予定です。
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中山道歩き34の3(2017/9/30) 10月21日(土) [中山道を行く]
冷たい雨が続いている最近ですが、昨日は午前中に雨は止み、雲の合間から青空が見えていました。
区役所に行く用事があったので、ついでに期日前投票をしてきました。
どこかのマスコミが出口調査をしていました。
午後から曇りの空が続き、午前は少し暖かった気温も下がり、寒い日に戻りました。
中山道34日目続きます。
赤坂宿本陣跡で少し休憩しました。
広場になっており何にも残っておりませんでした。
和宮が本陣に泊まったという石碑だけがありました。
進みます。
岐阜市に本店がある地方銀行十六銀行の支店がありました。
宿場町の雰囲気に合わせた建物です。
赤坂宿に現存する建物の中で、最古級の町屋建物で休清水家住宅です。
清水家は元商家だったそうです。
宿場の中心地だったところで、昔風の建物が並んでいます。
この先は十字路になっており、中山道と養老街道が交差しています。
交差点には大きな建物があります。
(電柱電線が邪魔ですね)
その先にはこの辺りの財閥と言われる矢橋家の住宅があります。
国登録有形文化財です。
周辺には矢橋工業をはじめ、矢橋グループの会社がいくつかあります。
少し先には、脇本陣であった榎屋があります。
調べてみると近年まで旅館として営業していたとか。
横の道には矢橋グループ本社の表示がしてあります。
この路地の奥にあるのでしょう。
榎屋は市の景観遺産の指定されているようです。
その先には、この建物が。
中山道宿場の駅五七処というそうです。
土産物などを売っているそうですが、私は歩き旅、荷物が増えるのは嫌なので、立ち寄りませんでした。
赤坂宿は、五十七番目の宿場と表示してありますが、普通の数え方では五十六番目です。
(江戸を一番目と数えているようです)
向かいに妙法寺と言うお寺がありました。
どう見ても門の屋根が傾いているようですが・・
先にあるお堂の床、前の灯篭で水平を合わせて撮ってみました。
赤坂宿の中心地を過ぎても、町並みは続きます。
道は緩やかな上り坂になりました。
宿場町のはずれでしょう。
区役所に行く用事があったので、ついでに期日前投票をしてきました。
どこかのマスコミが出口調査をしていました。
午後から曇りの空が続き、午前は少し暖かった気温も下がり、寒い日に戻りました。
中山道34日目続きます。
赤坂宿本陣跡で少し休憩しました。
広場になっており何にも残っておりませんでした。
和宮が本陣に泊まったという石碑だけがありました。
進みます。
岐阜市に本店がある地方銀行十六銀行の支店がありました。
宿場町の雰囲気に合わせた建物です。
赤坂宿に現存する建物の中で、最古級の町屋建物で休清水家住宅です。
清水家は元商家だったそうです。
宿場の中心地だったところで、昔風の建物が並んでいます。
この先は十字路になっており、中山道と養老街道が交差しています。
交差点には大きな建物があります。
(電柱電線が邪魔ですね)
その先にはこの辺りの財閥と言われる矢橋家の住宅があります。
国登録有形文化財です。
周辺には矢橋工業をはじめ、矢橋グループの会社がいくつかあります。
少し先には、脇本陣であった榎屋があります。
調べてみると近年まで旅館として営業していたとか。
横の道には矢橋グループ本社の表示がしてあります。
この路地の奥にあるのでしょう。
榎屋は市の景観遺産の指定されているようです。
その先には、この建物が。
中山道宿場の駅五七処というそうです。
土産物などを売っているそうですが、私は歩き旅、荷物が増えるのは嫌なので、立ち寄りませんでした。
赤坂宿は、五十七番目の宿場と表示してありますが、普通の数え方では五十六番目です。
(江戸を一番目と数えているようです)
向かいに妙法寺と言うお寺がありました。
どう見ても門の屋根が傾いているようですが・・
先にあるお堂の床、前の灯篭で水平を合わせて撮ってみました。
赤坂宿の中心地を過ぎても、町並みは続きます。
道は緩やかな上り坂になりました。
宿場町のはずれでしょう。
史跡御使者場跡の石柱が立っています。
御使者場とは、大名行列が来ると、宿場の役人たちが出迎えの挨拶をする場所の事
隣には兜塚の案内が立っていました。
関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦がありました。
戦死した東軍、の武将、野一色頼母(のいっしき たのも)を葬り、兜を埋めたと伝えられています。
関ケ原の合戦の前日、西(三成)軍と東(家康)軍との合戦がありました。
杭瀬川の周辺でありました。
その日の夜、西軍は関ケ原の方へ移動を始めました。
それを知った東軍は真夜中に移動をはじめ関ケ原に本陣を移しました。
翌日関ケ原の合戦が始まりましたが、その日のうちに終わりました。
結果は皆様ご存じかと思います。
・
兜塚には彼岸花が咲いていました。
しばらく進むと・・・・こちらが西濃鉄道昼飯線の廃線跡です。
踏切番の小屋の残骸が残っています。
遮断機のハンドルは錆だらけです。
中山道の町並みは続いていますが、昔はこの辺りは宿場ではないところです。
突如大きな工場がありました。
石灰石が採れる金生山がすぐ近くです。
消石灰の工場でした。
中までは見ませんでしたが、観音様でしょうか、丁寧に祭ってあります。
平坦な道になりました。
いきなりこんな案内板があります。
90mならすぐそこなので行ってみましょう。
大きな古墳がありました。
上まで登れますが上がりませんでした。
4世紀末ごろの古墳で前方後円墳です。
この日は垂井駅まで歩きます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
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御使者場とは、大名行列が来ると、宿場の役人たちが出迎えの挨拶をする場所の事
隣には兜塚の案内が立っていました。
関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦がありました。
戦死した東軍、の武将、野一色頼母(のいっしき たのも)を葬り、兜を埋めたと伝えられています。
関ケ原の合戦の前日、西(三成)軍と東(家康)軍との合戦がありました。
杭瀬川の周辺でありました。
その日の夜、西軍は関ケ原の方へ移動を始めました。
それを知った東軍は真夜中に移動をはじめ関ケ原に本陣を移しました。
翌日関ケ原の合戦が始まりましたが、その日のうちに終わりました。
結果は皆様ご存じかと思います。
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兜塚には彼岸花が咲いていました。
しばらく進むと・・・・こちらが西濃鉄道昼飯線の廃線跡です。
踏切番の小屋の残骸が残っています。
遮断機のハンドルは錆だらけです。
中山道の町並みは続いていますが、昔はこの辺りは宿場ではないところです。
突如大きな工場がありました。
石灰石が採れる金生山がすぐ近くです。
消石灰の工場でした。
中までは見ませんでしたが、観音様でしょうか、丁寧に祭ってあります。
平坦な道になりました。
いきなりこんな案内板があります。
90mならすぐそこなので行ってみましょう。
大きな古墳がありました。
上まで登れますが上がりませんでした。
4世紀末ごろの古墳で前方後円墳です。
この日は垂井駅まで歩きます。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き34の4(2017/9/30) 10月24日(火) [中山道を行く]
一昨日午後からSo-netの調子が悪く更新データを作ることが出来ませんでした。
昨日もお昼過ぎまで使えませんでした。
一日遅れの更新です。
・
昨日の朝は台風の影響で交通機関乱れもあり、お勤めの方はお疲れさまでした。
10時ごろには雨が上がり、良い天気になりました。
昼頃の景色です。
夕方には富士山の雲も消え、綺麗なシルエットを見ることが出来ました。
中山道の記事が続きます。
昨日もお昼過ぎまで使えませんでした。
一日遅れの更新です。
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昨日の朝は台風の影響で交通機関乱れもあり、お勤めの方はお疲れさまでした。
10時ごろには雨が上がり、良い天気になりました。
昼頃の景色です。
夕方には富士山の雲も消え、綺麗なシルエットを見ることが出来ました。
中山道の記事が続きます。
昼飯大塚古墳を見上げて少し休憩しました。
元の道に戻ります。
すぐに小ぎれいなお寺が見えました。
如来寺と言うお寺で、善光寺と関係があるようです。
さて、この辺りの地名は大垣市昼飯町です。
「ひるめし」ではなく「ひるい」です。
そうは言ってもひるめしから来ているようです。
進んでいくと横切るように線路があります。
この線路は東海道本線ですが、ちょっと特別な線路です。
この辺りの地図です。
赤い線が旧中山道で、この日歩いたところです。
地図を見ると東海道本線が二つあります。
東海道本線は出来た時は大垣から地図上の下の線路を通っていました。
大垣から関ヶ原方面は急な坂になっており、大垣駅で機関車を増結して運行していました。
戦時中の輸送力増強のため、増結、切り離しの手間を省くために勾配の緩い迂回線が作られました。
出来た当時は下り列車はこの線を通っていました。
・
現在、迂回線には下りの貨物列車、特急列車などが走るだけです。
東海道本線の下り線は古い設備なので各駅停車しか走っていません。
関ケ原駅始発の上り電車(一日2本程度)は関ケ原垂井間の下り線を逆走します。
垂井駅を過ぎてから上り線に入る変則的な路線です。
以上ネットから流用の図です。
以上の事はにわか勉強です。
これが迂回線の方です。
(下り列車しか通らないので、単線です)
通り過ぎてから、ガタゴト音が聞こえるので、振返ると偶々貨物列車が通るところでした。
今回の旅で、カーブミラー写真を撮っていませんでした。
9月30日で夏のような気温だったので半袖です。
進んでいくと「照手姫の水汲み井戸」の案内があったので、道から外れて行ってみました。
案内板の拡大です。
こういう言い伝え話は、街道歩きをしているとあちこちにあります。
井戸は網で覆われていました。
道に戻って進んでいくと、中山道青墓宿の柱が立っていました。
青墓宿という宿場は中山道にはありません。
青墓宿は、奈良時代からある幹線道路「東山道」の宿場として始まった場所です。
江戸時代、中山道の赤坂宿の繁栄と共に衰退しました。
広い道路を渡ったところにコンビニがありました。
この日、中山道を歩いていて初めてのコンビニです。
広い道路を渡ったところにコンビニがありました。
この日、中山道を歩いていて初めてのコンビニです。
飲み物を買ってイートインコーナーでしばらく休憩です。
わずかな休憩の後、旧中山道を進みます。
両側に住宅が並ぶ、歩道のない狭い道です。
抜け道になっているのか、車も次々通ります。
一里塚跡の石柱と常夜灯が立っていました。
青野ヶ原一里塚で江戸から111番目になります。
ここから道路は少し広くなり歩道も付いています。
彼岸花や柿の実が色を添えます。
材木屋さんの倉庫にこんなものがぶら下がっていました。
カラスよけなんでしょうか?
(効果があるのかな)
お地蔵さんが並んでいました。
平尾御坊とはここの北にある平尾御坊願證寺と言うお寺の事です。
コンビニよりさらに大きいスーパーマーケットの横を通ります。
伊吹山が近くなりました
三叉路に突き当り、角には追分の石碑があります。
中山道と大垣みちの分かれ目です。
相川と言う川を渡ります。
昔、この川は暴れ川で橋はありませんでした。
その為、人足渡しで渡川が主流でした。
川を渡り数分で垂井駅に着きました。
この日はここで終了です。
ここから、大垣経由名古屋まで普通電車で行き、新幹線で帰りました。
垂井も宿場町ですので、次回は垂井宿からスタートします。
この先5kmほどで関ケ原宿です。
(さらに5kmで滋賀県に入ります)
ここまで来ました。
残りは約100kmです。
(正確には9Xkmです)
今月に行こうと思っていましたが、通院スケジュール、天候不順のため行くことが出来ませんでした。
次のスケジュールは未定ですが、出来るだけ早いうちに行きたいと思っています。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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タグ:中山道
中山道歩き35の1(2017/10/26) 10月31日(火) [中山道を行く]
今度の台風は、一昨日(29日)の昼頃から強い雨になりましたが、夜中には上がったようです。
昨日は晴れましたが、昼前から強風で台風一過の散歩も出られませんでした。。
東京では木枯らし一番だったそうです。
夕方には丹沢と富士山のシルエットが見ることが出来ました。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
前記事でもお知らせしましたが、26日(木)、27日(金)に中山道歩きをしてきました。
今回の予定は下図の通りです。
緑の矢印が1日目、水色の矢印が2日目です。
最近はほとんど1泊2日です。
東海道を歩いた時は2泊3日でも行きましたが、今の脚力ではこれが適正かなと思います。
この行程で1日のんびりと15kmです。
(昔は一日25~30km歩きましたがさすがに今は無理です)
天気予報、体の調子、宿泊ホテルの確保可能かどうかを見て2日前ぐらいに決めます。
と言うわけで、基本的に傘を使うことはほとんどありません。
・
いつものように小田原経由で名古屋に向かいます。
前日までの変な天気も上がりすっきりとした青空でした。
新幹線から久しぶりにきれいな富士山が見えました。
(この写真だけスマホで撮影です)
名古屋から東海道線に乗り、大垣で乗り換え、垂井駅に着いたのは10時20分頃でした。
約1か月ぶりの垂井駅です。
垂井駅前広場に武士の銅像が立っています。
竹中半兵衛重治公と言うプレートが付いています。
戦国時代の美濃の武将らしいですが、垂井町にとっては郷土の誇りだという事です。
垂井宿に入っていきます。
宿場町らしい雰囲気ではあります。
「煙草」と言う文字も見られなくなりましたね。
それぞれの家には屋号が表示してあります。
宿場町にある桝形の突き当りには亀丸屋と言う旅籠があります。
1777年に建てられた旅籠です。
内部も昔のままだそうです。
今も営業中かどうかわかりませんが、最近まで営業していたそうです。
調べてみると、口コミ(2015/9)、2016年6月の新聞記事、がありました。
(この頃は営業中でした)
でもこの建物ではちょっとためらいますね。
この建物は立派ですね。
天保7年(1836)の浪花講道中記に出てくるそうで、丹波屋といいます。
この建物は大正元年に建てられた建物です
玄関の上の瓦には英文字があります。
ここは本陣跡ですが、今では歯医者さんがありました。
鳥居のある通りを横切りました。
南宮大社と言う立派な神社があるそうですが、1kmも先なので通過しました。
垂井町は宿場町として、盛り上げようとしています。
隣に、廃業した大衆食堂などもありますが・・
江戸時代は旅籠、明治以降は酒屋、現在は宿場休憩所として使われています。
お休み処「長浜屋」です。
平日でしたので閉まっていました。
国登録有形文化財の小林家主屋です。
江戸時代は油屋で、明治以降は旅籠(旅館)だったそうです。
松尾芭蕉が元禄時代一時逗留していたと言われる本龍寺です。
垂井宿は昔の雰囲気がかなり残っています。
宿場の端に近づきました。
宿場の出口、西の見附跡まで来ました。
歌川広重はここから関ヶ原方面を見た絵を描いています。
現在は全く違います。
上の写真の右端に小さな祠があり、お地蔵様があります。
普通は涎掛けのような物が多いですが、このお地蔵様は暖かそうです。
少し広い道になりました。
稲荷神社がありました。
案内板によれば「松島稲荷」と呼ばれ、本社は伏見稲荷だそうです。
松島はこの辺りの地名のようです。
道を進んでいくと踏切があります。
垂井一里塚の看板が見えます。
上り電車が来ました。
踏切を渡ると国道21号線です。
車の切れ目を見て渡ります。
(歩道橋がありますが、どうしても避けます)
渡った後、後ろを見たら今度は下り電車が通りました。
この辺りは東海道本線と言っても上り、下りどちらも1時間に2本位しかありません。
しばらく静かな道を進むと案内板がある建物がありました。
関ケ原山中、芭蕉ゆかりの地にあった建物を明治になってからこの地に移しました。
茶屋として昭和の初めまで利用されたという事です。
隣に垂井の一里塚がありました。
真正面からの逆光で画像が悪いです。
日守の一里塚で、日本橋から112番目の一里塚です。
(日守はこの辺りの地名)
先ほど渡った国道をまた渡り、静かな道になります。
ここで垂井町は終わり、関ケ原町に入って行きます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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昨日は晴れましたが、昼前から強風で台風一過の散歩も出られませんでした。。
東京では木枯らし一番だったそうです。
夕方には丹沢と富士山のシルエットが見ることが出来ました。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
前記事でもお知らせしましたが、26日(木)、27日(金)に中山道歩きをしてきました。
今回の予定は下図の通りです。
緑の矢印が1日目、水色の矢印が2日目です。
最近はほとんど1泊2日です。
東海道を歩いた時は2泊3日でも行きましたが、今の脚力ではこれが適正かなと思います。
この行程で1日のんびりと15kmです。
(昔は一日25~30km歩きましたがさすがに今は無理です)
天気予報、体の調子、宿泊ホテルの確保可能かどうかを見て2日前ぐらいに決めます。
と言うわけで、基本的に傘を使うことはほとんどありません。
・
いつものように小田原経由で名古屋に向かいます。
前日までの変な天気も上がりすっきりとした青空でした。
新幹線から久しぶりにきれいな富士山が見えました。
(この写真だけスマホで撮影です)
名古屋から東海道線に乗り、大垣で乗り換え、垂井駅に着いたのは10時20分頃でした。
約1か月ぶりの垂井駅です。
垂井駅前広場に武士の銅像が立っています。
竹中半兵衛重治公と言うプレートが付いています。
戦国時代の美濃の武将らしいですが、垂井町にとっては郷土の誇りだという事です。
垂井宿に入っていきます。
宿場町らしい雰囲気ではあります。
「煙草」と言う文字も見られなくなりましたね。
それぞれの家には屋号が表示してあります。
宿場町にある桝形の突き当りには亀丸屋と言う旅籠があります。
1777年に建てられた旅籠です。
内部も昔のままだそうです。
今も営業中かどうかわかりませんが、最近まで営業していたそうです。
調べてみると、口コミ(2015/9)、2016年6月の新聞記事、がありました。
(この頃は営業中でした)
でもこの建物ではちょっとためらいますね。
この建物は立派ですね。
天保7年(1836)の浪花講道中記に出てくるそうで、丹波屋といいます。
この建物は大正元年に建てられた建物です
玄関の上の瓦には英文字があります。
ここは本陣跡ですが、今では歯医者さんがありました。
鳥居のある通りを横切りました。
南宮大社と言う立派な神社があるそうですが、1kmも先なので通過しました。
垂井町は宿場町として、盛り上げようとしています。
隣に、廃業した大衆食堂などもありますが・・
江戸時代は旅籠、明治以降は酒屋、現在は宿場休憩所として使われています。
お休み処「長浜屋」です。
平日でしたので閉まっていました。
国登録有形文化財の小林家主屋です。
江戸時代は油屋で、明治以降は旅籠(旅館)だったそうです。
松尾芭蕉が元禄時代一時逗留していたと言われる本龍寺です。
垂井宿は昔の雰囲気がかなり残っています。
宿場の端に近づきました。
宿場の出口、西の見附跡まで来ました。
歌川広重はここから関ヶ原方面を見た絵を描いています。
現在は全く違います。
上の写真の右端に小さな祠があり、お地蔵様があります。
普通は涎掛けのような物が多いですが、このお地蔵様は暖かそうです。
少し広い道になりました。
稲荷神社がありました。
案内板によれば「松島稲荷」と呼ばれ、本社は伏見稲荷だそうです。
松島はこの辺りの地名のようです。
道を進んでいくと踏切があります。
垂井一里塚の看板が見えます。
上り電車が来ました。
踏切を渡ると国道21号線です。
車の切れ目を見て渡ります。
(歩道橋がありますが、どうしても避けます)
渡った後、後ろを見たら今度は下り電車が通りました。
この辺りは東海道本線と言っても上り、下りどちらも1時間に2本位しかありません。
しばらく静かな道を進むと案内板がある建物がありました。
関ケ原山中、芭蕉ゆかりの地にあった建物を明治になってからこの地に移しました。
茶屋として昭和の初めまで利用されたという事です。
隣に垂井の一里塚がありました。
真正面からの逆光で画像が悪いです。
日守の一里塚で、日本橋から112番目の一里塚です。
(日守はこの辺りの地名)
先ほど渡った国道をまた渡り、静かな道になります。
ここで垂井町は終わり、関ケ原町に入って行きます。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き35の2(2017/10/26) 11月2日(水) [中山道を行く]
朝晩は寒く感じますが、昼間は暖かい日が続いてます。
今日も昼間は20度くらいで秋の服装で丁度よい気温です。
この先も概ね良い天気が続きそうです。
明日から三連休の方も多いでしょう。
ニュースで見ましたが、日光の紅葉は本番らしいです。
・
中山道の続きです
垂井宿がある垂井町の隣は関ケ原町です。
この案内板は赤坂宿以降、見ていませんでしたが久しぶりに登場です。
「ここは関ケ原宿」となっていますが、関ケ原町に入ったばかりです。
相変わらず人の姿が見えない道を進んでいきます。
野上と言う集落に入りました。
中山道まつりと言うイベントがあるようです。
この日は10月26日です。
3日後にあります。
道端にはツワブキが沢山咲いていました。
旧街道に神社やお寺は沢山あります。
この神社は何処にお社があるんでしょう。
踏切を越えてその先にあるんでしょうね。
休憩所みたいなところに来ましたが、ここには井戸があり、「野上の七つ井戸」と言います。
防火用水、生活用水、農業用水として使われ、旅人の喉も潤したそうです。
近くには史跡があるようです。
この辺りはかなり昔から人が住んでいたようですね。
立派な家並みが続きます。
朝、家を出る時は気温が低くもう一枚着ていましたが、昼間は暖かくてこんな格好で歩いています。
大きな屋敷は立派な瓦ぶきです。
屋根には鯱が付いています。
松並木が見えてきました。
電柱には東軍の武士の説明板が付いています。
この辺りに山内一豊の陣がありました。
いよいよ関ケ原の合戦の雰囲気が高まってきます。
消火栓には石田三成の旗印「だいいちだいまんだいきち」と徳川家康の家紋三つ葉葵が描いてあります。
松並木が続きます。
中山道の松並木は、立科町の笠取峠の松並木以来、久しぶりです。
関ケ原町では天然記念物に指定し、防虫、補植により保護しているようです。
途中に広場があり、ベンチがあったので座ってお握りを頬張ります。
(丁度12時頃です)
公園の真ん中に小さな祠があり、お地蔵さんがいます。
六部地蔵と言います。
横にはこんな説明がありました。
松並木の道は続きます。
徳川家康は、赤坂宿から夜中に移動し、この辺りに陣を構えたと言われています。
関ケ原の合戦中は他の場所にも移動しています。
下図の右下がこの場所ですが、左中央に移動し、石田三成軍との決戦になりました。
杉並木の道は一旦途切れ、広い道に出ました。
しかし右に見える道路が旧中山道です。
再び静かな道になります。
また松並木がありまたが、ここは数本の松の木があるだけでした。
静かな道も終わりです。
関ケ原宿の中心地に近づいていきます。
関ケ原町は宿場町ではなく、古戦場を売り物にしているようです。
関ケ原の町の中山道は国道21号線と同じ道です。
(旧中山道がそのまま拡幅して国道になった)
街の至る所に旗が立っています。
左から石田三成、島津義弘、蒲生郷舎、徳川家康
宿場の中心地ですが、本陣跡とか他の宿場町である案内はありません。
関ケ原の合戦に関する場所の案内は沢山あります。
中山道は大型トラックが次々に通ります。
このまま帰るならば買って帰りますが、通過です。
道の向こうに見える建物は、永長元年創業(1096)の桝屋旅館です。
(関ケ原の合戦が1600年ですがその600年近く前に創業??)
建物は作り変えられていますが、今でも営業中です。
路地の奥にJR関ヶ原駅が見えました。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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今日も昼間は20度くらいで秋の服装で丁度よい気温です。
この先も概ね良い天気が続きそうです。
明日から三連休の方も多いでしょう。
ニュースで見ましたが、日光の紅葉は本番らしいです。
・
中山道の続きです
垂井宿がある垂井町の隣は関ケ原町です。
この案内板は赤坂宿以降、見ていませんでしたが久しぶりに登場です。
「ここは関ケ原宿」となっていますが、関ケ原町に入ったばかりです。
相変わらず人の姿が見えない道を進んでいきます。
野上と言う集落に入りました。
中山道まつりと言うイベントがあるようです。
この日は10月26日です。
3日後にあります。
道端にはツワブキが沢山咲いていました。
旧街道に神社やお寺は沢山あります。
この神社は何処にお社があるんでしょう。
踏切を越えてその先にあるんでしょうね。
休憩所みたいなところに来ましたが、ここには井戸があり、「野上の七つ井戸」と言います。
防火用水、生活用水、農業用水として使われ、旅人の喉も潤したそうです。
近くには史跡があるようです。
この辺りはかなり昔から人が住んでいたようですね。
立派な家並みが続きます。
朝、家を出る時は気温が低くもう一枚着ていましたが、昼間は暖かくてこんな格好で歩いています。
大きな屋敷は立派な瓦ぶきです。
屋根には鯱が付いています。
松並木が見えてきました。
電柱には東軍の武士の説明板が付いています。
この辺りに山内一豊の陣がありました。
いよいよ関ケ原の合戦の雰囲気が高まってきます。
消火栓には石田三成の旗印「だいいちだいまんだいきち」と徳川家康の家紋三つ葉葵が描いてあります。
松並木が続きます。
中山道の松並木は、立科町の笠取峠の松並木以来、久しぶりです。
関ケ原町では天然記念物に指定し、防虫、補植により保護しているようです。
途中に広場があり、ベンチがあったので座ってお握りを頬張ります。
(丁度12時頃です)
公園の真ん中に小さな祠があり、お地蔵さんがいます。
六部地蔵と言います。
横にはこんな説明がありました。
松並木の道は続きます。
徳川家康は、赤坂宿から夜中に移動し、この辺りに陣を構えたと言われています。
関ケ原の合戦中は他の場所にも移動しています。
下図の右下がこの場所ですが、左中央に移動し、石田三成軍との決戦になりました。
杉並木の道は一旦途切れ、広い道に出ました。
しかし右に見える道路が旧中山道です。
再び静かな道になります。
また松並木がありまたが、ここは数本の松の木があるだけでした。
静かな道も終わりです。
関ケ原宿の中心地に近づいていきます。
関ケ原町は宿場町ではなく、古戦場を売り物にしているようです。
関ケ原の町の中山道は国道21号線と同じ道です。
(旧中山道がそのまま拡幅して国道になった)
街の至る所に旗が立っています。
左から石田三成、島津義弘、蒲生郷舎、徳川家康
宿場の中心地ですが、本陣跡とか他の宿場町である案内はありません。
関ケ原の合戦に関する場所の案内は沢山あります。
中山道は大型トラックが次々に通ります。
このまま帰るならば買って帰りますが、通過です。
道の向こうに見える建物は、永長元年創業(1096)の桝屋旅館です。
(関ケ原の合戦が1600年ですがその600年近く前に創業??)
建物は作り変えられていますが、今でも営業中です。
路地の奥にJR関ヶ原駅が見えました。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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タグ:関ケ原宿
中山道歩き35の3(2017/10/26) 11月4日(土) [中山道を行く]
昨日は朝から暖かな晴天でした。
お出かけ日和でしたね。
行楽地は人が多かったでしょう。
サンデー毎日の私は近所の散歩位です。
今月は、雨ばかりだった先月のような天気でないことを祈ります。
++++++++++++++++++++++++
関ヶ原の駅前に案内所があるのですが、立ち寄らずに進みます。
車の流れが途切れたところで撮った宿場町の雰囲気です。
車が来るとこうなります。
歩道もガードレールもありません。
この辺りに住んでいる人は怖くないでしょうか??
しばらく進むと、旗が並んだところが見えてきました。
こんな所でした。
西首塚の案内がありました。
関ヶ原の戦いで亡くなった兵士の首、胴などが埋められているところです。
案内板によれば、明治になって東海道本線の工事では多くの白骨や、刀等が出て来たそうです。
この他に、東首塚もありますが、離れているため行きませんでした。
正面の木の根元には胴塚の碑が立っていました。
国道21号(中山道)を進んでいくと、道が分かれます。
約1.5km続いた国道21号線から分かれて静かな道になりました。
ほっとします。
9月頃から「関ケ原」と言う映画が上映されています。
(私も最近見ました)
そのせいか、案内図を持って古戦場巡りをしている人が結構いました。
お出かけ日和でしたね。
行楽地は人が多かったでしょう。
サンデー毎日の私は近所の散歩位です。
今月は、雨ばかりだった先月のような天気でないことを祈ります。
++++++++++++++++++++++++
関ヶ原の駅前に案内所があるのですが、立ち寄らずに進みます。
車の流れが途切れたところで撮った宿場町の雰囲気です。
車が来るとこうなります。
歩道もガードレールもありません。
この辺りに住んでいる人は怖くないでしょうか??
しばらく進むと、旗が並んだところが見えてきました。
こんな所でした。
西首塚の案内がありました。
関ヶ原の戦いで亡くなった兵士の首、胴などが埋められているところです。
案内板によれば、明治になって東海道本線の工事では多くの白骨や、刀等が出て来たそうです。
この他に、東首塚もありますが、離れているため行きませんでした。
正面の木の根元には胴塚の碑が立っていました。
国道21号(中山道)を進んでいくと、道が分かれます。
約1.5km続いた国道21号線から分かれて静かな道になりました。
ほっとします。
9月頃から「関ケ原」と言う映画が上映されています。
(私も最近見ました)
そのせいか、案内図を持って古戦場巡りをしている人が結構いました。
「このまち、まるごと、古戦場」と言うだけあって案内はきちんとしています。
不破関に近づきました。
不破関は壬申の乱(672年)の後、東山道の関所として設置されました。
不破関守の跡です。
資料館がありましたが、時間が無くなるのでパス。
先へ進みます。
国道に出るようです。
(実はこの道は間違っていました)
方向は正しいのでそのまま進みます。
この案内板のところで合流しました。
大谷吉継は徳川家康とも懇意でしたが、関ケ原の戦いでは西軍(三成軍)と共に東軍と戦いました。
合戦に敗れると自害しています。
間の宿であった山中地区に入ります。
元問屋場の建物です。
関ケ原地区では、関ケ原の戦いの1000年前、壬申の乱の戦場にもなっています。
壬申の乱のときはこの川が流血によって川底が黒くなったとの事で黒血川と呼ばれています。
違う流れですが、横には小さな滝があります。
鶯の滝といい、江戸時代には間の宿として店が並び休憩場所でした。
小さな祠が3つ並んでいました。
左は鶯滝地蔵菩薩、中央は黒血川地蔵と書いてあります。
進んでいくと常盤御前の墓の案内がありました。
こちらです。
(調べてみると常盤御前の墓と言われるものは群馬県、鹿児島県などにもあるようです)
しばらく進むと常盤地蔵の祠がありました。
関係ありませんが、ススキが綺麗だったので、パチリ。
いつのまにか家はなくなり、寂しい道路になりました。
踏切に出ました。
踏切を渡っている最中に踏切の警報が鳴り始めました。
米原行の電車が通過していきます。
道はしばらく線路に沿って進み、坂道になってきました。
寂しい道です。
先が少し明るくなりました。
ここは今須峠でした。
すぐに国道21号線に出ました。
注意して横断します。
(渡ってから撮った写真です・・・正面の細い道から来ました)
今須峠の案内板の通り一里塚跡がありました。
ここから今須宿に入っていきます。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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不破関に近づきました。
不破関は壬申の乱(672年)の後、東山道の関所として設置されました。
不破関守の跡です。
資料館がありましたが、時間が無くなるのでパス。
先へ進みます。
国道に出るようです。
(実はこの道は間違っていました)
方向は正しいのでそのまま進みます。
この案内板のところで合流しました。
大谷吉継は徳川家康とも懇意でしたが、関ケ原の戦いでは西軍(三成軍)と共に東軍と戦いました。
合戦に敗れると自害しています。
間の宿であった山中地区に入ります。
元問屋場の建物です。
関ケ原地区では、関ケ原の戦いの1000年前、壬申の乱の戦場にもなっています。
壬申の乱のときはこの川が流血によって川底が黒くなったとの事で黒血川と呼ばれています。
違う流れですが、横には小さな滝があります。
鶯の滝といい、江戸時代には間の宿として店が並び休憩場所でした。
小さな祠が3つ並んでいました。
左は鶯滝地蔵菩薩、中央は黒血川地蔵と書いてあります。
進んでいくと常盤御前の墓の案内がありました。
こちらです。
(調べてみると常盤御前の墓と言われるものは群馬県、鹿児島県などにもあるようです)
しばらく進むと常盤地蔵の祠がありました。
関係ありませんが、ススキが綺麗だったので、パチリ。
いつのまにか家はなくなり、寂しい道路になりました。
踏切に出ました。
踏切を渡っている最中に踏切の警報が鳴り始めました。
米原行の電車が通過していきます。
道はしばらく線路に沿って進み、坂道になってきました。
寂しい道です。
先が少し明るくなりました。
ここは今須峠でした。
すぐに国道21号線に出ました。
注意して横断します。
(渡ってから撮った写真です・・・正面の細い道から来ました)
今須峠の案内板の通り一里塚跡がありました。
ここから今須宿に入っていきます。
次回に続きます。
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中山道歩き35の4(2017/10/26) 11月6日(月) [中山道を行く]
三連休のお天気も雨が降ることもなく行楽には良い天気でした。
私は近所の散歩以外は出かけることもなく家にいました。
昨日から気温が多少低くなり、いよいよ「秋深し」の感じになってきました。
・
中山道の続きです。
今須峠を越えて今須宿の入り口に来ました。
(14:45頃です)
(前記事最後の写真です)
石材屋さんだったと思いますが、シャッターに広重の今須宿が描いてあります。
町の中に入ります。
常夜灯があり、立派な家が並んでいます。
今須宿は本陣 1、脇本陣 2、旅籠屋 13の宿場だったそうです。
ここが本陣跡です。
ここの案内板です。
振返ると道路の高架下の向こうにお寺が見えます。
妙応寺と言う曹洞宗のお寺です。
立派なお寺でした。
正平15年(1360年)に今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建したお寺です。
関ヶ原の戦いの翌日、徳川家康は今須に立ち寄り、座ったとされる石がありました。
元は今須宿本陣の家にあったものです。
街道に戻って進みます。
元問屋場(山崎家)の建物です。
美濃十六宿の中で当時のまま残っているのはここだけです。
ここの建物は特に説明もありませんでしたが、ベンガラ塗りの建物です。
ここから先、近江路に入ると多くのベンガラ塗りの建物が見られます。
塀の中にある常夜灯がありました。
横の説明板によると以下の通りです。
京都の問屋河内屋は大名の荷物を運ぶ途中、この今須宿で荷物を紛失した。
途方に暮れた河内屋は、金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りしたら荷物が見つかった。
そのお礼にこの常夜灯を建立した。
秋なので午後3時を過ぎると影が長くなります。
お寺が多い街です。
真宗大谷派の真宗寺です。
道路はかなり日陰になりました。
緩い上り坂になります。
またお寺があります。
横町はありませんが法善寺です。
同じく真宗大谷派です。
鳥居がありました。
今須八幡神社です。
奥には常夜灯のような灯篭が立っています。
お社はここから1kmぐらい奥のようです。
宿場のはずれに来ました。
21号線を横切らなければなりません。
トラックが出てきた所に行かねばなりません。
ここは信号があるので安心して渡れます。
信号を渡ると左へ曲って踏切を渡ります。
オーツカと言う会社の工場の横を進みます。
従業員の駐車場の横に芭蕉の句碑があります。
正月も 美濃と近江や 閏月
隣の小さな方には
年暮れぬ 傘着て草履はきながら
奥の細道の一部が彫ってあります。
芭蕉の句碑から100m位進みました。
寝物語とは、川を挟んで旅籠があったので、旅人が寝ながら話をしたとか・・
その他いろんな話があります。
このくらいの幅ならば話は出来ますね。
広重もここで絵を描いています。
江濃両国境と描いてあります。
いよいよ近江の国に入りました。
先へ進みます。
昔ながらの建物が続きます。
寝物語が売り物ですね。
この案内板がありました。
ここには美濃側に5軒、近江側に20軒の家があったようです。
家が途切れて道の両側は山や畑になります。
道沿いにはモミジの木が多くなりました。
松並木、杉並木はよくありますが、楓並木は珍しいです。
大きな木もあります。
突然こんな警告です!!
この日は10月26日です。
ほんの1か月前の事です。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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私は近所の散歩以外は出かけることもなく家にいました。
昨日から気温が多少低くなり、いよいよ「秋深し」の感じになってきました。
・
中山道の続きです。
今須峠を越えて今須宿の入り口に来ました。
(14:45頃です)
(前記事最後の写真です)
石材屋さんだったと思いますが、シャッターに広重の今須宿が描いてあります。
町の中に入ります。
常夜灯があり、立派な家が並んでいます。
今須宿は本陣 1、脇本陣 2、旅籠屋 13の宿場だったそうです。
ここが本陣跡です。
ここの案内板です。
振返ると道路の高架下の向こうにお寺が見えます。
妙応寺と言う曹洞宗のお寺です。
立派なお寺でした。
正平15年(1360年)に今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建したお寺です。
関ヶ原の戦いの翌日、徳川家康は今須に立ち寄り、座ったとされる石がありました。
元は今須宿本陣の家にあったものです。
街道に戻って進みます。
元問屋場(山崎家)の建物です。
美濃十六宿の中で当時のまま残っているのはここだけです。
ここの建物は特に説明もありませんでしたが、ベンガラ塗りの建物です。
ここから先、近江路に入ると多くのベンガラ塗りの建物が見られます。
塀の中にある常夜灯がありました。
横の説明板によると以下の通りです。
京都の問屋河内屋は大名の荷物を運ぶ途中、この今須宿で荷物を紛失した。
途方に暮れた河内屋は、金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りしたら荷物が見つかった。
そのお礼にこの常夜灯を建立した。
秋なので午後3時を過ぎると影が長くなります。
お寺が多い街です。
真宗大谷派の真宗寺です。
道路はかなり日陰になりました。
緩い上り坂になります。
またお寺があります。
横町はありませんが法善寺です。
同じく真宗大谷派です。
鳥居がありました。
今須八幡神社です。
奥には常夜灯のような灯篭が立っています。
お社はここから1kmぐらい奥のようです。
宿場のはずれに来ました。
21号線を横切らなければなりません。
トラックが出てきた所に行かねばなりません。
ここは信号があるので安心して渡れます。
信号を渡ると左へ曲って踏切を渡ります。
オーツカと言う会社の工場の横を進みます。
従業員の駐車場の横に芭蕉の句碑があります。
正月も 美濃と近江や 閏月
隣の小さな方には
年暮れぬ 傘着て草履はきながら
奥の細道の一部が彫ってあります。
芭蕉の句碑から100m位進みました。
寝物語とは、川を挟んで旅籠があったので、旅人が寝ながら話をしたとか・・
その他いろんな話があります。
このくらいの幅ならば話は出来ますね。
広重もここで絵を描いています。
江濃両国境と描いてあります。
いよいよ近江の国に入りました。
先へ進みます。
昔ながらの建物が続きます。
寝物語が売り物ですね。
この案内板がありました。
ここには美濃側に5軒、近江側に20軒の家があったようです。
家が途切れて道の両側は山や畑になります。
道沿いにはモミジの木が多くなりました。
松並木、杉並木はよくありますが、楓並木は珍しいです。
大きな木もあります。
突然こんな警告です!!
この日は10月26日です。
ほんの1か月前の事です。
次回に続きます。
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中山道歩き35の5(2017/10/26) 11月8日(水) [中山道を行く]
昨日は、ちょっと外に出て歩いただけで汗ばむような天気でした。
少し薄手のカーデガンなどで十分でした。
(いったん仕舞った物を、また引っ張り出してきました)
楓並木の道を進んでいくと遭遇したのがこの警告です。
(前記事最後の写真です)
道はこんな道になりました。
少し不安になります。
幸い熊にも出会わず、200mほどで終わりました。
長比城は浅井長政が江濃国境を固めるために作った重要拠点です。
警告にも記載されていた神明神社の入り口です。
旧東山道の跡もありました。
律令時代の道です。
普通の道に出て踏切を渡ります。
柏原宿が近づきました。
16時ごろになりました。
色づいたモミジに夕陽が当たります。
照手姫笠掛地蔵という説明書きの横に小さな祠がありました。
右の小さなお地蔵様が笠地蔵です。
小栗判官助重が毒酒を飲まされ、死ぬ瀬戸際だった所地蔵に傘をかけて祈ったら治った
とかいう長い説明がありましたが、作り話のようなそうでないような・・・
この辺りが東見附だったところで、宿場町の始まりです。
中山道の宿場ではよく見たものです。
規格が統一されているのでしょうか???
進んでいくと、竜宝院跡という案内がありました。
この小さなお堂には秘仏が納められているとの事、どんな仏様でしょうね。
すぐ先に神社がありました。
八幡神社です。
境内に入ると、芭蕉の句碑がありました。
奥の細道の最終地は大垣です。
宿場の中心に近づきました。
少し薄手のカーデガンなどで十分でした。
(いったん仕舞った物を、また引っ張り出してきました)
楓並木の道を進んでいくと遭遇したのがこの警告です。
(前記事最後の写真です)
道はこんな道になりました。
少し不安になります。
幸い熊にも出会わず、200mほどで終わりました。
長比城は浅井長政が江濃国境を固めるために作った重要拠点です。
警告にも記載されていた神明神社の入り口です。
旧東山道の跡もありました。
律令時代の道です。
普通の道に出て踏切を渡ります。
柏原宿が近づきました。
16時ごろになりました。
色づいたモミジに夕陽が当たります。
照手姫笠掛地蔵という説明書きの横に小さな祠がありました。
右の小さなお地蔵様が笠地蔵です。
小栗判官助重が毒酒を飲まされ、死ぬ瀬戸際だった所地蔵に傘をかけて祈ったら治った
とかいう長い説明がありましたが、作り話のようなそうでないような・・・
この辺りが東見附だったところで、宿場町の始まりです。
中山道の宿場ではよく見たものです。
規格が統一されているのでしょうか???
進んでいくと、竜宝院跡という案内がありました。
この小さなお堂には秘仏が納められているとの事、どんな仏様でしょうね。
すぐ先に神社がありました。
八幡神社です。
境内に入ると、芭蕉の句碑がありました。
奥の細道の最終地は大垣です。
宿場の中心に近づきました。
建物の前には屋号、業種の札が付いています。
街灯に、夕陽が当たって点灯しているように見えました。
曲がり角を曲がると直ぐに柏原駅でした。
16時15分頃でした。
この日の宿泊は彦根です。
米原方面は16:30です。
「柏原駅」はJRには他にもあります。
ここは・かしわばら
大阪府・かしわら
兵庫県・かいばら
電車が来るのを待ちます。
米原で乗り換え、彦根に17時ごろ着きました。
・
街道歩きではほとんどビジネスホテルです。
ホテルを探すとき私はじゃらんのサイトをよく使います。
ここの宿泊代は5800円でしたが、予約する時にじゃらんのポイントが5000点使えました。
じゃらんは、時々有効期間が短いポイントプレゼントがあります。
と言うことでこの時は800円でした。
この日の歩数は約27000歩でした。
歩いた場所はこんなところです。
今日の記事に関係ありませんが、前回記事の石材屋さんのシャッターの絵。
グーグルマップのストリートビューで見ると広重の絵はありません。
日付は2014年11月でした。
・
次回更新はちがう記事を入れます。
中山道2日目(10/27)の記事は、次々回になります。
・
秋も深まりました。
立冬は過ぎましたが、相変わらず気温の上下が激しいです。
体調管理にはお気を付けください。
本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き36の1(2017/10/27) 11月12日(日) [中山道を行く]
昨日、横浜では強風だったり、雨が降ったり、晴れて見たり不安定な天気でした。
今日からは良い天気らしいですが、気温の上下もあり、体調管理には注意です。
中山道の続きです。
10月26日は彦根で泊まり、翌朝柏原駅まで戻ってきました。
この日も上天気です。
伊吹山が綺麗に見えます。
駅から150m、中山道に戻ります。
朝9時ごろです。
宿場の中心地に近くなります。
この看板がかかっていました。
「蠟燭」、難しい字ですね、読めても書けません
問屋場の建物です。
ここにはこんな看板がついていました。
宿場町とは関係ありませんが、こんな建物がありました。
吉村公三郎は映画監督で多くの作品があるようです。
調べてみましたが、名前は知っていても、私はその映画は見たことがありませんでした。
この建物は本陣跡に建っています。
こんな石柱が立っていました。
荒物屋の看板がさがってますが、普通の住宅です。
ベンガラ塗りです。
ベンガラ塗りは防腐効果があるようです。
この地域に多く見られます。
雪の多いことに関連があるかも知れません。
小さな橋に来ました。
道の中央には溝のような箇所が見えますが、ここにはスプリンクラーが付いています。
橋を渡ると立派な屋敷がありました。
その向こうに続いている建物は、有名な艾(もぐさ)屋さんです。
「伊吹堂」(正式には亀屋佐京商店)で今でも営業しています。
(創業1661年)
中には大きな「福助」がある事で有名です。
残念ながら見ることは出来ませんでした。
私が持っているガイドブックによればこんな福助だそうです。
(本のコピーです)
広重はこの辺りを描いています。
向かいには造り酒屋跡に酒樽を置いて休憩所になっていました。
柏原宿は、約1.5kmと続き、比較的大きな宿場でした。
本陣1、脇本陣2、旅籠屋22、そのほかに約350軒の家があったそうです。
右側に柏原宿歴史館の建物が見えました。
染料関係で財を成した松浦家の建物です。(この建物は大正時代に建ったものです)
ここでは中に入って見ました。
(但し内部の写真はありません)
殆どの宿場には八幡神社がありますが、ここは日枝神社でした。
この神社の本殿は檜皮ぶきの様でした。
他の宿場と比べてお寺は少ないように感じました。
小さな土産物屋さんの建物ですが、荷車の車輪が飾ってあります。
こちらも造り酒屋の跡です。
水がいいので、幾つかあったようです。
「煮賣屋」とは魚、野菜、豆などを煮たものを売る店でした。
次第に、お茶や酒を出すようになり、居酒屋風になってきたそうです。
まだ町並みは続きます。
ここにも艾屋の看板がありました。
柏原宿には10軒以上の艾屋があったそうです。
柏原宿では年1回「やいと祭り」が開催されるそうです。
これは現代の建物です。
集会所などで使われている公の場所です。
火の見櫓も昔の雰囲気に合わせて作ったそうです。
長い街並みと言うだけあってまだ続きます。
可能ならば電柱はなくして欲しいですね。
常夜灯があり、その先の橋の向こうは家が無さそうです。
橋を渡ったところに、一里塚跡(復元)がありました。
115番目の一里塚です。
こんな所にありました。
桜の木ですから春は綺麗でしょう。
進む道はこちらです。
西見附跡の案内板がありましたので、柏原宿の西のはずれでしょう。
次回に続きます。
・
この日の道中記はまだ続きがありますが、本日、明日は10月27日の続きを歩いてきます。
次回更新は、11月15日(水)です。
皆様への訪問は後日になります。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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今日からは良い天気らしいですが、気温の上下もあり、体調管理には注意です。
中山道の続きです。
10月26日は彦根で泊まり、翌朝柏原駅まで戻ってきました。
この日も上天気です。
伊吹山が綺麗に見えます。
駅から150m、中山道に戻ります。
朝9時ごろです。
宿場の中心地に近くなります。
この看板がかかっていました。
「蠟燭」、難しい字ですね、読めても書けません
問屋場の建物です。
ここにはこんな看板がついていました。
宿場町とは関係ありませんが、こんな建物がありました。
吉村公三郎は映画監督で多くの作品があるようです。
調べてみましたが、名前は知っていても、私はその映画は見たことがありませんでした。
この建物は本陣跡に建っています。
こんな石柱が立っていました。
荒物屋の看板がさがってますが、普通の住宅です。
ベンガラ塗りです。
ベンガラ塗りは防腐効果があるようです。
この地域に多く見られます。
雪の多いことに関連があるかも知れません。
小さな橋に来ました。
道の中央には溝のような箇所が見えますが、ここにはスプリンクラーが付いています。
橋を渡ると立派な屋敷がありました。
その向こうに続いている建物は、有名な艾(もぐさ)屋さんです。
「伊吹堂」(正式には亀屋佐京商店)で今でも営業しています。
(創業1661年)
中には大きな「福助」がある事で有名です。
残念ながら見ることは出来ませんでした。
私が持っているガイドブックによればこんな福助だそうです。
(本のコピーです)
広重はこの辺りを描いています。
向かいには造り酒屋跡に酒樽を置いて休憩所になっていました。
柏原宿は、約1.5kmと続き、比較的大きな宿場でした。
本陣1、脇本陣2、旅籠屋22、そのほかに約350軒の家があったそうです。
右側に柏原宿歴史館の建物が見えました。
染料関係で財を成した松浦家の建物です。(この建物は大正時代に建ったものです)
ここでは中に入って見ました。
(但し内部の写真はありません)
殆どの宿場には八幡神社がありますが、ここは日枝神社でした。
この神社の本殿は檜皮ぶきの様でした。
他の宿場と比べてお寺は少ないように感じました。
小さな土産物屋さんの建物ですが、荷車の車輪が飾ってあります。
こちらも造り酒屋の跡です。
水がいいので、幾つかあったようです。
「煮賣屋」とは魚、野菜、豆などを煮たものを売る店でした。
次第に、お茶や酒を出すようになり、居酒屋風になってきたそうです。
まだ町並みは続きます。
ここにも艾屋の看板がありました。
柏原宿には10軒以上の艾屋があったそうです。
柏原宿では年1回「やいと祭り」が開催されるそうです。
これは現代の建物です。
集会所などで使われている公の場所です。
火の見櫓も昔の雰囲気に合わせて作ったそうです。
長い街並みと言うだけあってまだ続きます。
可能ならば電柱はなくして欲しいですね。
常夜灯があり、その先の橋の向こうは家が無さそうです。
橋を渡ったところに、一里塚跡(復元)がありました。
115番目の一里塚です。
こんな所にありました。
桜の木ですから春は綺麗でしょう。
進む道はこちらです。
西見附跡の案内板がありましたので、柏原宿の西のはずれでしょう。
次回に続きます。
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この日の道中記はまだ続きがありますが、本日、明日は10月27日の続きを歩いてきます。
次回更新は、11月15日(水)です。
皆様への訪問は後日になります。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き36の2(2017/10/27) 11月15日(水) [中山道を行く]
前記事でお断りした通り、11月12日、13日2日間中山道を歩いてきました。
2日間共良い天気で快適な旅が出来ました。
現在の記事は10月27日ですがこの日は鳥居本まで歩きました。
(今日の記事は柏原宿を出たところですが鳥居本宿まで2、3回続きます)
11月12日と13日は鳥居本宿から武佐宿まで歩きました。
(下図の黄緑の宿場です)
前記事の続きです。
柏原宿を出ると、家はなくなり、のどかな道に変ります。
時々車が通る程度で静かな道です。
右側は山、左側は田んぼ、畑が広がりその先には国道21号線が走っています。
右側に、松の木が植えてあります。
柏原宿制定400年で平成14年に植えられたものです。
ここには幕末には450本の松の木があったとか、
ここでは「松並木」ではなく「並び松」と言うそうです。
この先から小さな集落に入っていきます。
10軒ぐらいほど家が続き、途切れた所にCafeの看板が。
丁度よいので暖かいコーヒーを頂きました。
自転車で来た人としばらく街道談義など・・
長らく休憩する訳には行きません。
先に進みます。
この集落は「長沢」、「ながそ」と読むようです。
右・・旧中山道
左・・中山道
私としてはどちらも旧中山道ですが・・?
道は林の中に入ります。
150m位の暗い道でした。
出口にあった道標にカマキリがとまっています。
小さな小屋があり、お地蔵様がならんでいます。
どう考えても最初からこのようなものだったとは思えません。
新しい道路工事などで移設したのかもしれません。
この先、各所で見かけることになります。
国道21号線がすぐ横になりました。
幸い、21号線を歩かずに済みそうです。
気持ちの良い道になりますが、21号線は近くを通っていますので、騒音は聞こえます。
天気は良く、気温も高かったので、上着を脱ぎました。
9月の日焼けに上塗り(焼け)です。
気持ち良い景色が広がります。
横を流れる川は梓川といいます。
道の傍に、柿が置いてあります。
一瞬、考えましたが、持ち帰りませんでした。
昔は考えもしなかったであろう「旅籠?」の裏を通ります。
横道があったので見たら、21号線沿いの旅籠?でした。
道は川沿いに続いています。
松並木がありました。
ここでは松並木と言うようですね。
(先ほどの並び松の場所から2km位しか離れていません)
この後、川沿いの道は途切れて、国道21号線を横断し(信号はありませんでした)
国道の歩道を進みます。
しばらくすると左に分かれていきます。
再び静かな道になりました。
こんな案内はいいですね。
八幡神社がありました。
ここの注連縄は藁で作った物ではありませんでした。
一色の一里塚跡の石碑がありました。(116番目)
道は開けた所に出て、道路の右下には国道21号線、JR東海道線が走っています。
小さな小屋があり、中には井戸のような物があります。
仏心水と言う井戸です。
中山道を往来する人、馬の喉を潤した井戸です。
近くにはコンクリートブロックの小屋に閉じ込められた(?)石像たちがいます。
道は下り坂になり、角を曲がると醒井宿に入っていきます。
次回に続きます。
・
一昨日の夜は冷たい雨になりました。
昨日の朝は寒くなり、通学の子供たちも冬の装いになりました。
皆さま、暖かくしてお過ごしください。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
・
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中山道歩き36の3(2017/10/27) 11月17日(金) [中山道を行く]
昨日は天気もよく気持ちの良い日でした。
私の部屋は南東を向いているので午前中は比較的暖かいです。
しかし昼過ぎると、日陰になり急に寒くなります。
着る物も増やし、ファンヒーターを動かさないと寒いです。
今日は昨日よりも気温が下がるようです。
暖かくして過ごしましょう。
醒井(さめがい)宿に入ります。
宿場町らしい雰囲気は少し匂いますが、建物は比較的新しい物ばかりです。
家の前にこんなものが並べてありました。
どういう意図があるか知りません。
ここは観光地の側面が強そうです。
近くにあるJRの駅名は「醒ヶ井」ですが、宿場名は「醒井」です。
左側の崖に神社がありました。
加茂神社と言うそうです。
神社のあるところから、道路の横にはきれいな川が始まります。
この辺りに何か所か水が沸くところがありきれいな水が流れています。
地蔵川と言ってとてもきれいな水が流れています。
7月~8月にはバイカモが咲いて、大勢の人が訪れるそうです。
水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで 雨森芳洲
上の案内の横には地蔵堂がありました。
古くから延命地蔵尊として親しまれ、毎年8月23日、24日の地蔵盆は盛大に行われるそうです。
横には崖にお地蔵様達が・・・
お堂の前にはこちら
この川の左にはいくつかの建物があり、お休み処などがあります。
それぞれに小さな橋があります。
後ろを振り返るとこんな光景です。
ここには「ハリヨ」と言う珍しい魚が生息しているそうです。
バイカモが咲いている時期に再訪したい所です。
問屋場の跡が資料館になっていました。
醒井宿は本陣とか脇本陣の案内はなく、宿場町としてではなく単なる観光地と言う感じでした。
きれいな流れは売り物ですね。
道路の右側には観光客向けのお店もあります。
ここは醤油屋さんです。
しょうゆソフトに目が行きましたが、ちょっと腹の具合が調子よくありません。
この門の向こうは観光用駐車場でした。
了徳寺と言うお寺の隣に大銀杏の木がありました。
今頃は黄色くなっているでしょうね。
ちょうどお昼頃、このベンチでおにぎりを食べてちょっと休憩しました。
近くにはツワブキの花が綺麗に咲いていました。
宿場の中心部から離れると川の流れから離れます。
長い塀ですね。
お寺かと思いましたが、大きな屋敷でした。
西行水と言われるところに来ました。
東の国へ旅をする西行がここにあった茶屋に立ち寄りお茶を飲んだとか
道はやがて広い道に入り、・・・・この道は間違いでした。
ちょっと時間をロスしましたが、正しい道に戻ります。
ここから少し怖い国道21号線に入ります。
歩道のない国道歩きが始まります。
しばらくするとY字路になりました。
こちらです。
頑張って次の宿場目指して歩きましょう。
次回に続きます。
・
本日もご訪問ありがとうございました。
私の部屋は南東を向いているので午前中は比較的暖かいです。
しかし昼過ぎると、日陰になり急に寒くなります。
着る物も増やし、ファンヒーターを動かさないと寒いです。
今日は昨日よりも気温が下がるようです。
暖かくして過ごしましょう。
醒井(さめがい)宿に入ります。
宿場町らしい雰囲気は少し匂いますが、建物は比較的新しい物ばかりです。
家の前にこんなものが並べてありました。
どういう意図があるか知りません。
ここは観光地の側面が強そうです。
近くにあるJRの駅名は「醒ヶ井」ですが、宿場名は「醒井」です。
左側の崖に神社がありました。
加茂神社と言うそうです。
神社のあるところから、道路の横にはきれいな川が始まります。
この辺りに何か所か水が沸くところがありきれいな水が流れています。
地蔵川と言ってとてもきれいな水が流れています。
7月~8月にはバイカモが咲いて、大勢の人が訪れるそうです。
水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉とみるまで 雨森芳洲
上の案内の横には地蔵堂がありました。
古くから延命地蔵尊として親しまれ、毎年8月23日、24日の地蔵盆は盛大に行われるそうです。
横には崖にお地蔵様達が・・・
お堂の前にはこちら
この川の左にはいくつかの建物があり、お休み処などがあります。
それぞれに小さな橋があります。
後ろを振り返るとこんな光景です。
ここには「ハリヨ」と言う珍しい魚が生息しているそうです。
バイカモが咲いている時期に再訪したい所です。
問屋場の跡が資料館になっていました。
醒井宿は本陣とか脇本陣の案内はなく、宿場町としてではなく単なる観光地と言う感じでした。
きれいな流れは売り物ですね。
道路の右側には観光客向けのお店もあります。
ここは醤油屋さんです。
しょうゆソフトに目が行きましたが、ちょっと腹の具合が調子よくありません。
この門の向こうは観光用駐車場でした。
了徳寺と言うお寺の隣に大銀杏の木がありました。
今頃は黄色くなっているでしょうね。
ちょうどお昼頃、このベンチでおにぎりを食べてちょっと休憩しました。
近くにはツワブキの花が綺麗に咲いていました。
宿場の中心部から離れると川の流れから離れます。
長い塀ですね。
お寺かと思いましたが、大きな屋敷でした。
西行水と言われるところに来ました。
東の国へ旅をする西行がここにあった茶屋に立ち寄りお茶を飲んだとか
道はやがて広い道に入り、・・・・この道は間違いでした。
ちょっと時間をロスしましたが、正しい道に戻ります。
ここから少し怖い国道21号線に入ります。
歩道のない国道歩きが始まります。
しばらくするとY字路になりました。
こちらです。
頑張って次の宿場目指して歩きましょう。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き36の4(2017/10/27) 11月19日(日) [中山道を行く]
昨日は朝から曇り空で、太陽の姿は一度も見ることがありませんでした。
その為、気温も低く一日中部屋の中で過ごしました。
そして、今朝は起きた時の室温が15度でした。
中山道の旅、続きます。
交通量の多い国道21号線を離れて静かな道になりました。
この辺りは、家並みが途切れることは無さそうです。
玄関の軒先にこんなものが吊るしてありました。
道の傍に水路が通っています。
やがて、国道21号線の信号が見えてきます。
国道に合流するのではなく、横切って道は進みます。
静かな道です。
立派な塀が続きます。
大きなお寺でした。
街道沿いには、大きい立派なお寺は度々見かけますが、大きな神社はほとんどありません。
しばらく歩きガード下を通ります。
この上は米原ジャンクションから分かれた北陸自動車道です。
この先に一里塚跡の石碑が建っていました。
少し寂しい道になりました。
こんな看板が立っています。
しばらくすると家があり、番場宿に入ってきました。
宿場町らしさはありません。
手作り看板です。
少し進むと交差点になり、宿場の中心地だったところに来ました。
番場(ばんば)宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋10の小さな宿場だったようです。
脇本陣と本陣は並んであったようです。
番場宿は米原に近く、琵琶湖までも4kmぐらいのところです。
その為、米原経由で琵琶湖の水運に通じる宿場として運送の要所であったようです。
歌川広重がこの辺りを描いています。
脇本陣跡は石碑が立っているだけです。
本陣跡には今はこの家があります。
これが立っています。
先に進みます。
なにやらいろいろな案内が立っています。
史跡蓮華寺といっても見えませんので通過します。
鎌刃城跡は国の史跡に指定されています。
築城年代は、はっきりしませんが応仁の乱のころではないかと言われています。
山城なのでこの山かもしれませんが、わかりません。
小さな宿場と言うけれど、家はまだ続いています。
神社があります。
この神社は北野神社でした。
街道沿いには神社が無数にありますが、北野神社は初めて出てきました。
奥に本殿があり、立派な建物の様でした。
この辺りは中山道と呼ばれる前、東山道の番場宿駅(宿場)だったようです。
こんな建物が並んでいます。
やがて家が無くなり、寂しい道になります。
正面は名神高速道路です。
ススキが綺麗だったのでワンショット。
道は名神高速道路に沿って緩い坂道を進みます。
名神高速道路は上の方に見えます。
振返ると、伊吹山が見えています。
(これ以後、中山道から伊吹山が見えるところはありませんでした)
緩い上り坂はまだ続きます。
この頃の太陽の日差しは弱く、日陰になると暗くなります。
やっと名神高速道路と同じ高さになりました。
小さな祠があり、横に水が湧いています。
道は下って行きます。
下りてきたところに道標がありました。
この先に摺針峠があります。
今の峠が摺針峠かと思っていたら、違いました。
(実名かどうかわかりませんが、「小摺針峠」と言うそうです)
その為、気温も低く一日中部屋の中で過ごしました。
そして、今朝は起きた時の室温が15度でした。
中山道の旅、続きます。
交通量の多い国道21号線を離れて静かな道になりました。
この辺りは、家並みが途切れることは無さそうです。
玄関の軒先にこんなものが吊るしてありました。
道の傍に水路が通っています。
やがて、国道21号線の信号が見えてきます。
国道に合流するのではなく、横切って道は進みます。
静かな道です。
立派な塀が続きます。
大きなお寺でした。
街道沿いには、大きい立派なお寺は度々見かけますが、大きな神社はほとんどありません。
しばらく歩きガード下を通ります。
この上は米原ジャンクションから分かれた北陸自動車道です。
この先に一里塚跡の石碑が建っていました。
少し寂しい道になりました。
こんな看板が立っています。
しばらくすると家があり、番場宿に入ってきました。
宿場町らしさはありません。
手作り看板です。
少し進むと交差点になり、宿場の中心地だったところに来ました。
番場(ばんば)宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋10の小さな宿場だったようです。
脇本陣と本陣は並んであったようです。
番場宿は米原に近く、琵琶湖までも4kmぐらいのところです。
その為、米原経由で琵琶湖の水運に通じる宿場として運送の要所であったようです。
歌川広重がこの辺りを描いています。
脇本陣跡は石碑が立っているだけです。
本陣跡には今はこの家があります。
これが立っています。
先に進みます。
なにやらいろいろな案内が立っています。
史跡蓮華寺といっても見えませんので通過します。
鎌刃城跡は国の史跡に指定されています。
築城年代は、はっきりしませんが応仁の乱のころではないかと言われています。
山城なのでこの山かもしれませんが、わかりません。
小さな宿場と言うけれど、家はまだ続いています。
神社があります。
この神社は北野神社でした。
街道沿いには神社が無数にありますが、北野神社は初めて出てきました。
奥に本殿があり、立派な建物の様でした。
この辺りは中山道と呼ばれる前、東山道の番場宿駅(宿場)だったようです。
こんな建物が並んでいます。
やがて家が無くなり、寂しい道になります。
正面は名神高速道路です。
ススキが綺麗だったのでワンショット。
道は名神高速道路に沿って緩い坂道を進みます。
名神高速道路は上の方に見えます。
振返ると、伊吹山が見えています。
(これ以後、中山道から伊吹山が見えるところはありませんでした)
緩い上り坂はまだ続きます。
この頃の太陽の日差しは弱く、日陰になると暗くなります。
やっと名神高速道路と同じ高さになりました。
小さな祠があり、横に水が湧いています。
道は下って行きます。
下りてきたところに道標がありました。
この先に摺針峠があります。
今の峠が摺針峠かと思っていたら、違いました。
(実名かどうかわかりませんが、「小摺針峠」と言うそうです)
もう一つの峠を越えればこの日の最終予定地である、鳥居本宿です。
次回に続きます。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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中山道歩き36の5(2017/10/27) 11月21日(火) [中山道を行く]
この2,3日寒い朝が続いています。
昨日の朝はかなり寒く、昨日東京に出かけましたが、この冬はじめてマフラーをしました。
丸ビル前のイチョウは色は変わってはいましたが、まだ完全に黄色くはなっていませんでした。
中山道、10月27日の最後です。
摺針峠だと思っていた小摺針峠を越えて、本物の摺針峠に向かいます。
しばらくすると磨針の一里塚跡の標柱がありました。
こういうものにしては珍しい字体です。
道は緩い上り坂になってきました。
称名寺と言うお寺がありました。
称名寺と言うお寺は私の家の近く(横浜の金沢区、鎌倉)にもあります。
しかし宗派がちがいます。
道は峠の頂点に来ました。
昔の道は左の坂を上り鳥居の前を通っていたそうです。
家が建っているところに「望湖堂」というお茶屋があったそうです。
後で調べたら、鳥居の少し上の方から琵琶湖が見えるそうです。
(上がって見ればよかった)
広重はここで描いています。
道は下って行きます。
舗装した道路のよこにこんな案内が立っていました。
(ちょっとぶれています)
こんな細い道です。
林の中に入り、道がはっきりしません。
急な下り坂です。
やっと出口が見えてきました。
抜けるとここに出てきました。
民家の庭先のような所を通ります。
その先は国道に出ます。
今までは国道21号線と中山道はほぼ並行していましたが、これからは国道8号線になります。
橋を渡るとすぐに左に入り旧道になります。
もう彦根市に入ったようです。
大きなモニュメントが立っています。
説明が無いので定かではありません。
(彦根市役所のHP には旅人の像となっていました)
近江商人の旅姿、望湖堂で休憩中の旅人、虚無僧などでしょうか。
このモニュメントを過ぎると宿場町に入っていきます。
63番目の宿場鳥居本(とりいもと)宿です。
苔むした茅葺屋根の家がありました。
しかし軒のあたりは瓦です。
桝形の角に古くからの建物がありました。
懐中胃薬「赤玉神教丸」を製造販売している有川家の建物です。
今でも販売しているようです。
立派な建物です。
こんな家並みが続きます。
古い看板がある家がありました。
鳥居本は「合羽」が名産でした。
何が書いてるか読めません。
本陣跡は案内板だけでした。
この家の前には脇本陣跡の案内板があります。
脇本陣跡を曲がると近江鉄道鳥居本駅が正面に見えます。
ここに鉄道がとおった昭和8年に建てられた駅です
(一度建て替えられましたが元の形を残してあるそうです)
内部の様子です。
30分に1本ぐらいしか電車はありません。
私が乗る電車の反対方面行の電車が来ました。
洒落た服装のお婆さんが一人乗って行きました。
お~いお茶のラッピング電車でした。
私が乗る米原行の電車が来るまで、近くを通る夕暮れの新幹線を見ていました。
手前の電線が邪魔でした。
電車が来ました。
車内はガラガラでした。
この後米原駅から新幹線で帰ります。
米原に止まるひかり号指定席は満席。
自由席に乗りましたが、幸い岐阜羽島で座れました。
10月26日、27日の中山道道中記は終わりです。
10月26日 垂井駅~柏原駅 27,312歩
昨日の朝はかなり寒く、昨日東京に出かけましたが、この冬はじめてマフラーをしました。
丸ビル前のイチョウは色は変わってはいましたが、まだ完全に黄色くはなっていませんでした。
中山道、10月27日の最後です。
摺針峠だと思っていた小摺針峠を越えて、本物の摺針峠に向かいます。
しばらくすると磨針の一里塚跡の標柱がありました。
こういうものにしては珍しい字体です。
道は緩い上り坂になってきました。
称名寺と言うお寺がありました。
称名寺と言うお寺は私の家の近く(横浜の金沢区、鎌倉)にもあります。
しかし宗派がちがいます。
道は峠の頂点に来ました。
昔の道は左の坂を上り鳥居の前を通っていたそうです。
家が建っているところに「望湖堂」というお茶屋があったそうです。
後で調べたら、鳥居の少し上の方から琵琶湖が見えるそうです。
(上がって見ればよかった)
広重はここで描いています。
道は下って行きます。
舗装した道路のよこにこんな案内が立っていました。
(ちょっとぶれています)
こんな細い道です。
林の中に入り、道がはっきりしません。
急な下り坂です。
やっと出口が見えてきました。
抜けるとここに出てきました。
民家の庭先のような所を通ります。
その先は国道に出ます。
今までは国道21号線と中山道はほぼ並行していましたが、これからは国道8号線になります。
橋を渡るとすぐに左に入り旧道になります。
もう彦根市に入ったようです。
大きなモニュメントが立っています。
説明が無いので定かではありません。
(彦根市役所のHP には旅人の像となっていました)
近江商人の旅姿、望湖堂で休憩中の旅人、虚無僧などでしょうか。
このモニュメントを過ぎると宿場町に入っていきます。
63番目の宿場鳥居本(とりいもと)宿です。
苔むした茅葺屋根の家がありました。
しかし軒のあたりは瓦です。
桝形の角に古くからの建物がありました。
懐中胃薬「赤玉神教丸」を製造販売している有川家の建物です。
今でも販売しているようです。
立派な建物です。
こんな家並みが続きます。
古い看板がある家がありました。
鳥居本は「合羽」が名産でした。
何が書いてるか読めません。
本陣跡は案内板だけでした。
この家の前には脇本陣跡の案内板があります。
脇本陣跡を曲がると近江鉄道鳥居本駅が正面に見えます。
ここに鉄道がとおった昭和8年に建てられた駅です
(一度建て替えられましたが元の形を残してあるそうです)
内部の様子です。
30分に1本ぐらいしか電車はありません。
私が乗る電車の反対方面行の電車が来ました。
洒落た服装のお婆さんが一人乗って行きました。
お~いお茶のラッピング電車でした。
私が乗る米原行の電車が来るまで、近くを通る夕暮れの新幹線を見ていました。
手前の電線が邪魔でした。
電車が来ました。
車内はガラガラでした。
この後米原駅から新幹線で帰ります。
米原に止まるひかり号指定席は満席。
自由席に乗りましたが、幸い岐阜羽島で座れました。
10月26日、27日の中山道道中記は終わりです。
10月26日 垂井駅~柏原駅 27,312歩
10月27日 柏原駅~鳥居本駅 32,067歩
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中山道歩きは11月12日、13日にも行ってます。
次回は他の記事を掲載し、中山道歩きは続きます。
本当は今日、明日にさらに続きを歩くつもりでしたが、ホテルがどこも満室で止めました。
京都のホテルが一杯になると、草津、近江八幡まで満室になります。
本日もご訪問ありがとうございました。
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D7500
AF-S DX NIKKOR 18-140mm f/3.5-5.6G ED VR
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中山道歩きは11月12日、13日にも行ってます。
次回は他の記事を掲載し、中山道歩きは続きます。
本当は今日、明日にさらに続きを歩くつもりでしたが、ホテルがどこも満室で止めました。
京都のホテルが一杯になると、草津、近江八幡まで満室になります。
本日もご訪問ありがとうございました。
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