中山道歩き29の4(2017/6/9) 7月7日(金) [中山道を行く]
九州北部は大変なことになっていますね。
台風と違い、今回の豪雨は居座る様に同じところに降り続けています。
早く、止んで欲しいと思います。
横浜では、蒸し暑い日が続いていますが、雨はほとんど降りません。
こちらは少しぐらい雨が欲しいくらいです。
・
中山道の道中記6月7日分の最後です。
「一呑みの清水」の先は、広い道になりました。
このまま続くかと思ったらすぐ左に曲がります。
再び細い道になります。
案内板が立っています。
この辺りは歌川広重の版画のモデルになったところのようです。
この辺りに茶屋、木賃宿があったと思われます。
この絵です。
静かな細い道が続きます。
石柱が立っています。
謡坂(うとうさか)石畳です。
急な上り坂のため、旅人は苦しさを紛らわすため、唄を歌いながら上りました。
「うたう坂」が「うとう坂」になったと言われています。
台風と違い、今回の豪雨は居座る様に同じところに降り続けています。
早く、止んで欲しいと思います。
横浜では、蒸し暑い日が続いていますが、雨はほとんど降りません。
こちらは少しぐらい雨が欲しいくらいです。
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中山道の道中記6月7日分の最後です。
「一呑みの清水」の先は、広い道になりました。
このまま続くかと思ったらすぐ左に曲がります。
再び細い道になります。
案内板が立っています。
この辺りは歌川広重の版画のモデルになったところのようです。
この辺りに茶屋、木賃宿があったと思われます。
この絵です。
静かな細い道が続きます。
石柱が立っています。
謡坂(うとうさか)石畳です。
急な上り坂のため、旅人は苦しさを紛らわすため、唄を歌いながら上りました。
「うたう坂」が「うとう坂」になったと言われています。
私の場合は下り坂ですので、鼻歌交じりで下ります。(笑)
私は約50年前に左足を挫いたことがあり、毎年、梅雨前になると痛み出します。
急な石畳を下りる時に痛みを感じます。
ここの石畳は新たに作られたもので距離は長くなく、すぐに終わりました。
緩い下り坂です。
車もほとんど通りません。
緑の幟が見えました。
耳神社と言い、耳の病気にご利益があるとのことです。
再び細い道に入ります。
山道に入りました。
16時過ぎですが夏のためまだ明るいです。
11月頃ならば暗くなる時間です。
案内板がありました。
西洞(さいと)坂と言う急な坂です。
重い荷物を背負った牛の鼻が擦り切れるほどの坂で「牛の鼻かけ坂」と呼ばれました。
中山道全般を通して、この坂を境に江戸方は急な山道になり京方は平坦な道になるとなっています。
私は約50年前に左足を挫いたことがあり、毎年、梅雨前になると痛み出します。
急な石畳を下りる時に痛みを感じます。
ここの石畳は新たに作られたもので距離は長くなく、すぐに終わりました。
緩い下り坂です。
車もほとんど通りません。
緑の幟が見えました。
耳神社と言い、耳の病気にご利益があるとのことです。
再び細い道に入ります。
山道に入りました。
16時過ぎですが夏のためまだ明るいです。
11月頃ならば暗くなる時間です。
案内板がありました。
西洞(さいと)坂と言う急な坂です。
重い荷物を背負った牛の鼻が擦り切れるほどの坂で「牛の鼻かけ坂」と呼ばれました。
中山道全般を通して、この坂を境に江戸方は急な山道になり京方は平坦な道になるとなっています。
左上から来て、右下に下りて行きます。
坂を下りると、案内通り平坦な道になりました。
近くに山は見えません。
何回か角を曲がり、国道21号線に出ました。
角を曲がり、すぐに和泉式部の廟所がありました。
1019年、この地で病死したと記されています。
御嵩宿に向かって進みます。
21号線は交通量が多いです。
(後ろを振り返っています)
21号線はバイパスに分かれ静かになります。
ここを左に曲がります。
左に入るとさらに静かな道になりました。
通り沿いには大きなお寺が見えます。
宿場町の入り口あたりでしょうか。
御嵩宿の行燈が付いている家が見える様になりました。
こんな家があり旧宿場町の風情が感じられます。
商家「竹屋」できれいに保存されていました。
トイレを借りるため立ち寄りました。
これは中山道みたけ館という史料館です。
脇本陣だったところです。
本陣跡は隣にありました。
今でも大きなお屋敷です。
駅の手間に大きなお寺がありました。
「願興寺」というお寺でした。
この寺には翌朝立ち寄りました。
御嵩駅はすぐ目の前です。
電車に乗って新可児へ向かいます。
この時18時ごろです。
5月27日に歩いた時は大湫で止めて釜戸駅まで歩きました。
今回は大湫宿から御嵩駅まで6時間かかりました。
同じペースで歩いたとしても、19時を過ぎていた思います。
2回に分けてよかったです。
新可児駅からルートイン可児までの途中です。
翌日は何処まで行けるか・・・?
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6月7日の道中記でした。
次回はちがう記事を挟み、次々回から6月8日の道中記になります。
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前記事の静岡県御殿場の名前の由来について訂正・補足
徳川家康が存命中に、江戸と駿府の間に休憩するための御殿を作らせました。
しかし、翌年家康が亡くなり、家康はこの御殿を使う事はなかった。
(御殿場市ホームページより)
それ以後この場所を御殿場と呼ぶようになったようです。
前記事で久能山から日光への遺体移送の時に仮安置するために作ったという話は間違いのようです。
(hanamuraさんのコメントの方が正解でした。・・さすが静岡県人)
しかし、移送中に一時安置したことは間違いでもなさそうな気もします。
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本日もご訪問ありがとうございました。
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Nikon 1 V2
1 NIKKOR 10-30mm f3.5-5.6